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正直な気持ちを綴っておく。

あとから消すかもしれないけど、正直な気持ちをここに書き留めておこうと思う。

私にとっては、「その人にとって本当に大切なお金と時間と健康を、私が、損ねさせてしまった」という1年だった。今振り返って率直に思うのは。その人たちにとって、もっと、ほんとうにその人たちのためになる使い方が、きっとあったはずであろう、大切な大切なものを、私が、奪ってしまった。時間というものは、もう二度と戻らない。お金だって、その自分の時間というものを費やして得た、とても大事なものだ。健康は、すべての土台になるもので、なによりも大切にするものだ。私の浅はかさのせいで、私が考えなしなせいで、たくさんのひとの、大事なもの(そのなかにはもう永遠に取り戻せないものも含まれる)を、消費するよう、仕向けてしまった。

自己憐憫に浸っているようにも思う。自分を罪人に仕立て上げてそれに酔ってるようにも思う。ただまあ、一旦、そういった客観的ツッコミはおいておいて、まずは、私の率直な気持ちが、自己ツッコミによって声を上げることを阻害されることなく、語りたいままに、語れるようにしてあげて、語るにまかせてみたいと思う。

少し話はそれるのですが、中学校の英語の授業でとてもよく覚えていることがあります。それは「【part of life】をなんと訳す?」というお話です。「lifeには、生活、人生、命という意味がある。だからpart of lifeには3つ訳し方があって、生活の一部、人生の一部、命の一部……。文脈によって、あるいは自身の感性で、どれにするかを決めましょう」と教わりました。

〇〇は生活の一部だ。

これは推し活をしていたら、わかりみの深い文章な気がします。

〇〇は人生の一部だ。

かなり大きな話ですが、やはり、作品だったり人だったり、自分の人生を大きく変えてくれたり、心を支えてくれているものに対して、そのような気持ちを抱くのは、ありますよね。私もFateは人生です。

〇〇は命の一部だ。

ここまでくると、さらに大きな話になります・・・!

なにが言いたかったかというと。

いつもSHOWROOMで時間を共にしてくださっていること。配信外の時間をも、私のために使ってくださっていること。ギフトをくださること。FANBOXのご支援をいただいて、今これを読んでくださっていること。それは「Serena is part of your life.(セレナは、あなたの【Life】の一部だ」ということに、なると思うのです。

人生というのは1日1日の積み重ねで、そのうちのたった1日であれ、配信ルームにきてくれたなら、それはどんなに小さな割合でも、占めていることにはなりますし、1ヶ月、2ヶ月となればなおさら…。

あるいは、時間は命そのものとも言えるかもしれない。または、睡眠は健康≒命に直結するものですし、お金だって生きるために絶対に必要なものなのだから、命です。

(中略)

私が言いたいのは、セレナがあなたの生活か人生か命の一部であるのなら、その、セレナが占める部分が、ふと笑顔がほころんでしまうような、ほっこりと胸があたたかくなるような、嫌なことを一瞬でも忘れられるような、そんな一部でありたいと思っている……そんな一部であれるようにがんばっていきたいと思っている、ということです。

2021年3月14日 限定公開日記より

これをまっとうできなかったな、と思います。「見てくれている人にとって価値ある時間をつくろう」とがんばっていました。その人のお金や時間をいただいているのです。その人は、ほかのものではなく、私のつくるコンテンツをみることに、その人の時間(お金)を使うことを選んでくれています。であれば、他のものに費やすよりも、私のつくるコンテンツに費やしたことが、そのひとのためになる、そんな価値あるものであらねばと。

ちょっとまわりくどい言い方になってしまったので、言い換えると、「『私の歌や配信は、他のことをするより、他の番組を見聞きするより、断然有意義なもの!』と自分自身が胸を張って言えること」が必要だと思っていました。あるいは、今はそうでなくとも、将来的にそうなるであろうものでなければならないと思っていました。「私を応援したことを絶対に後悔させない、そんな未来に連れていくからね!」っていうやつです。

そこを無理することが、もうできないなって思いました。「私が作り出すものよりもっとすばらしいものがこの世にはいくらでもある。絶対そっちを見た方がいい時間になる。」という正直な気持ちに、素直であろうと思った。本音を覆い隠しながら、「私のコンテンツ、すっっごくいいから、見て!」なんて、心に反したことを言いつづけるのが、もう苦しくなってしまった。そういう自己欺瞞をできるかぎりしないで生きていきたいはずなんだ私は! と思って。

逆に言えば、「自分でも心の底から良い!と思えるものを発表していきたい」と思うようになった。自分自身も間違いなく「これは本当に価値あるものだ」「数分間の時間を払ってでも、これを聞いてもらうことが、きっとその人のためになるだろう」と心からの自信をもって言えるもの、お天道様に誓えるもの、そういうものをつくっていきたいと。……我ながらあまりにも仰々しいな。えっと、これは特に「お金を頂くものに関しては」という感じです。お金なんていうたいそうなものを対価としていただくのなら、私自身が価値をきちんと認めているものでなくてはならないと思いました。あと、惰性でなんとなく配信ボタンを押すようなことや、内容よりも配信し続けること自体が目的になってしまってるようなことも、私はやめたい、と思いました。

そして、ただただ私が自分の趣味としてやりたいものは、もうそれは「Take Free」ってかんじです。ただもうポイっと放置するだけ。宣伝もしない。拡散希望なんてない。だってそれは私がただ自分のこころを満たすためだけに生み出したもので、自分自身、それに人さまのお手を煩わさせるほどの価値を感じていないし、ましてお金をいただくものではないから。聴いてくれるのは嬉しい。でも、その「聴く」以上の時間を費やしてもらうのは、心苦しいので。

なんか、言い訳がましいかなあ。どうなんだろうねえ。でもま、ひとまずこれが私の今の正直なところです。という感じで。もうちょっと歌が上手になれば、このあたりの考え方も変わってくるかもしれないなあとは思っています。下手すぎるんですわ、ほんと。現状、お耳汚しでしかないので。もっと世にあふれる素晴らしい歌をきいてください、って本気で思っているので。そこに嘘ついて笑顔で手を振るのは、私のポリシーに反するというか、私が苦しくなって、しあわせではなくなってしまうのです。自分がしあわせになれないことは、私は、しません。自分が心からしあわせでいてこそ、まわりにもしあわせを伝播させていけると思うからです。

それに対して、「あなたの歌声が好き」というふうに言ってもらえるのは……正直これも、複雑な気持ちというか、自分でもどう受け止めていいかわからないものです。ありがたいのはまちがいない。でも、私は、今の自分の歌声をそんなにいいものだと思ってない。だから、素直に受け取れない。……あー。これも共感と同感のはなしでしょうか。同感はできないけど……。うーん。だからやっぱり、現状は、「レコーディングして、がちがちに修正入れて、自分でも『まぁ聴けるな』って思えるレベルまで引き上げて…ってしたものをアップする」しかないと思っています。それだったら、素直にありがとうと言える気がするので。

ほんとうに面倒くさい奴だなって思う。でも、この自分の面倒くささに私はとことん付き合ってあげないと、今こういう生活してる意味がないんですよ。この面倒くささを適当にいなしてしまうなら、一般社会に自分を押し殺して働きに出るのと変わらないので、それだったら安定してサラリーをもらえる仕事について心を殺して粛々と手を動かしますよ、って感じなので。(まあ、心を殺してると体調悪くするので、結局続かないのですが……)

はー! ほんとにめんどくさい人! 一般的に「ただのわがまま野郎」だって、わかっている! だけど、こういうとことん自分のめんどくささに付き合ってあげることが、物理的に許される状況にあるかぎりは、続けていこうと思うわけで。それが私独自の生存戦略なので。

***

本来書こうと思っていた方向からそれちゃった気がする。

えーと、一番最初に書いたようなことを思っていること自体が、あまりにも申し訳ないのです。せめてそこは「でもそのおかげでいろんなことができてめちゃくちゃ楽しかった」なら、まだ、まし。人から奪っておきながら、結果的に自分もしあわせになっていないとか、サイテーすぎる。じゃあ最初からやるなよっていう話。っていうふうに、自分自身が、あの1年を「負」に近いものに捉えているのが、きっと、いちばん、見ててくれた人を悲しませるだろうし、がっかりさせるだろうし、なんだよてめえ! って話だと思っている。

いえ、決して「負」だとはとらえていないんですね。むしろもう、ものすごくものすごく、あの1年間は私に必要でした。ニュージーランドにワーホリに行ったことと同じくらい、人生の大きなターニングポイントのひとつだった。あの1年を通じての学びが、私の人生、最終的に何十年になるかはわかりませんが、その人生全体に影響するものすごい大切で重要な時間だったことは間違いない。ほんとうに、なくてはならないものだった。【思いっきり違う方向に猪突猛進して、心に反することを続けていると、こんなにも自他ともに残念なことを引き起こすんだ】と、これ以上ないほど身に染みて痛感して、ようやっとわたしは、ほんとうに私が歩みたい道を、腹の底から納得して、腹くくって、どっしりとした気持ちでずんずんと歩んでいける、そのための、後押ししてくれるパワーを培った時間だった。

あの1年をどのように思うかというと、「暴走族のリーダーとしてやんちゃしてしまった。今は深く反省している」という感覚が一番近いように思っています。健全な心身の発育を保つにはよろしくないこと(わかりやすいところでは寝不足とか)を、煽って煽って、武勇伝のようにウェーイ! ってやってるような。リーダーとして、それ(不健全なこと)を称えてしまっていたような。その当時は、間違いなくそれを楽しんでいたし、きっと望む未来へ至れる道のりだと信じていた。でも、次第に違和感が生まれはじめて、少し時間をとって考えて……この道を進んでも、望む未来には決してたどり着けない、と悟った。今はもう、あの頃の行いを「善い」こととは見なせない、そういう価値観になっている。暴走族のリーダーからは、もう、足を洗おうって思った。

私個人の、人生の勉強代を……しかも法外な額を、労力を……人様に払わせてしまった……なあ……。っていう申し訳なさ。

あと、必要だったけど、でも「誤り」だったと今は見なさざるを得ない、というところも申し訳ない。そしてそのことを馬鹿正直に言葉にしてしまってるところも、どないやねん、て感じで。そこは、「本当に良い思い出になった。ありがとう」って、サクッと笑顔で締めるのが、せめてもの役割じゃないか? って。本音のところではどう思っているかなんて心にしまって、応援してくださった方が、応援してきたことをしあわせに思えるように、ある意味嘘をつきながらきれいに締めることが、きっと本来あるべき姿で、エレガントだよなって……あるいは、それが、社会性……的な? 

1年、って大きな括りにするのもよくないよね。もうちょっと、主語でくくる範囲を狭くして話したほうがいい。具体的にどういうものに対して、今は「善いと思えない」と感じているのかっていう言い方にするのは大切かもしれない。あの1年のまるっと全部を誤りだなんて思ってないわけで。心からの幸せを感じた瞬間もあった。しあわせな出会いがいっぱいあった。うん、ただ、くくる範囲を狭くした主語をハッキリと言うことについては、私はまだためらいがあるので、ここではぼかしておきます……。

やはりこの記事は、人でなしだろうか。それを言える神経を疑うと言われるだろうか。だれかをものすごく悲しませるだろうか。後悔させるだろうか。でも、最近つくづく思うのは、「正しい答えなんてない。自分が正しいと思うことを成すだけ」だなあって。まあよく言われる事だけど、ほんっとーに、そうだなー! って実感するようになった、最近。

つまり、相手がどう思うかを想像する・相手をおもんぱかることは、とても大事だけど、でもぶっちゃけ相手が実際どう思うかなんて、わかりゃしない。だから結局、私は、私が思ったこと・そこで出すのが正しいと自分なりに信じたことを率直に出すしかないんじゃないかって、思うようになった。割と今までは、「安牌=言わないでおく。あたりさわりのないところにとどめておく。」っていうところに安住してたのですが。これからはもう、自分はこう思う! ってところをハッキリ言っていこうかなって気持ちになってきているってことですね。

自分の言ったことを相手がどううけとめるかなんて自分にはあずかり知らぬこと! って思うのも、ありっしょ。考えすぎた結果、何も言えなくなってしまうってのは、よくある。でも、何も言えなくなるということは、自分が消えてしまうということだから。自分が消えてしまうことが常態化すると、もう生きていたくなくなるので。

相手を怒らせることも、悲しませることも、それによって自分があとで非難されるとしても、それをうけとめると覚悟して、自分の思いを表明することって大事なんじゃないかと……この年になってやっと思うようになったのです。おもんぱかりすぎて漂白しすぎた結果無味乾燥な言葉になるのももったいないと思うしね。気遣い星人過ぎるんだよ、みんな。

うん、だから、きっと本来やるべきスマートな行動からことごとく逸脱していることに、ごめんなさいの気持ちがある。でも私は、私なりに、ここに書いてきたきもちは、表に出したいものであると、自分の中で「きっとそちらが正しい」と信じて、決めたものなので。でも、私のこの選択が、あなたを傷つけてしまったらごめんなさい。苦情は受け付けます。(そのうちどこかにメールフォームとかつくります。)

ああ、そうだ。私の思考って、どうやら一般的に「ありえない」ことが多いみたいなので、なんかそういう、一般的な考え方をうまくできない(うまくなじめない)人間が、VTuberっていう人気稼業を選ぶことは、よくなかったなって、それはすごい思っています。むいてない、ってやつでした。あるいは最初からもっと人間失格的なキャラクターでやるべきだったんだよね。なんか、人格者みたいなキャラクターをやろうとして失敗して悲しませてごめんなさいっていう気持ちはすごくある。まっとうしきれなくてごめんね、って。(つくづく、世の“望まれる姿を演じることをまっとうし続ける”ことをやっている人たちに、頭が下がる思いがする……本当にすごい人たち。尊敬する……。)

***

ああ、そうそう。また最初のほうの話に戻るけど。それでもなんか、去年の活動に対して、ほめてくれるというか……素晴らしい経験だったとか、出会えてよかったとか、そういう言葉を届けてもらうのは……もうこれも、ほんとうに、もう、わからないです。最初に読んだ時が、超絶落ち込んでいるときだったから、余計にもう、いわゆる「情緒がめちゃくちゃ」というやつで。

でもすくなくとも、そのタイミングで、その言葉が私の中に入ってきたことは、なにかしら、わたしの心のなかの水面に輪を描いてくれて、私はその感覚がどういうものなのか、よくわからないけど、なにかしらのさざめきがあって、それが今日この瞬間の私にもきっと影響を及ぼしているのだと思います。

ひとつ言えるなら、「そういうものなんだなあ」って感じです。私の中では、反省しかないけど、でも、その費やされた時間、過ごした時間は、誰かにとってはまた違うものであったと……そのひとにとっての何かであったと……で、その時間が生まれたのは、一応、きっかけとしては、私がやった(開催した)からであると……。そんな、ふしぎなかんじです。これは、自分の人生ではじめて感じた感覚、新たに知った事柄です。

良くも悪くも、自分の意図とか、自分の思いとは関係なく、自分の行いは、誰かに、その人自身の感性にもとづいて、自由に、受け取られるもの、なんだなあって。それこそ、自分のあずかり知らぬところで、知らぬうちに。それが、そのひとにとって、いいものであったのなら、それは、よかったなって思いますよね。うん。

と同時に、私も私の自由意思にもとづいて、ある程度、どんなものを出すかとか、自分でコントロールしても別に良いよねってことに(すごくいまさら)気づきました。最終的には自由に受け取ってもらっていいんだけど、できればまあ、私としては、できれば、こんな感じのものを受け取ってほしいんだよなあって、ところを……。あんまりにも遠い解釈をされることを、可能な限り避けるために、こちらで制御できる範囲で、ちょっとボリューム調整というか……していきたいなって……。でもまあそれすら自己満足ですね。結果は求めない……。

でもこういうこと考えてると、別に私ケーキ屋さんがどんな思いでケーキつくってるかなんて考えずに、ただおいしいケーキ食べればいいやってきもちで、ぱくーって食べちゃうもんね。そんなもんなんだよなあ。そんなもんなんだよ。それもなんか、人生における新しい発見・学びでした。

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