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幼少期に見た、アニメ(監督のクリエイティビティの発露)に、性癖(善のイデア)を形成されるという話

※このブログの記事は、人に意味をわからせることを念頭に入れず、なんの脈略もなく突然、私がただ書きたいままにペンを走らせる(手をキーボードを打つにまかせる)ものです。

もうなんだか一気にいろいろ弾けててすごい。今までいろんな打ち上げ花火を集めてチャッカマンしてみたのに「あれ?不発だったか?出費だけして何もならんかったか?」みたいな感じだったのに、ここにきて物凄い時間差で、スパパパパパパーンって全部弾けて火を噴き始めてて、びゃああぁあってなってる。なんだなんだ。完全に未来が見えてる。いきたい場所決めて飛行機予約して宿をとればそれだけでもう旅行は完成されてる(あとは遂行するだけ)なのと同じように、それくらいの「もう当たり前にできる」くらいのあれで、未来の旅程表が印刷されたわ。まだざっくりだけど。なに、パワーストーンのちからなの? なんなの? 宇宙からのメッセージなの? 隕石? なるほど? 隕石がふってきたからこそ、生命が芽生えた的な。地球という土壌はあっても、なにかやはり、ビリヤードで最初の球がコツンと動かされることが必要なように、外部からもたらされるスイッチ的なものは必要ということか。もうブログ書きたいネタがありすぎて困るよね。さっき箇条書きしてみたらすでに10以上あるし、それぞれ多分1000文字以上語りたいやつだし、日々いろんなものみてそれでまた書きたいもの増えるから、たいへんですね。

そんなわけでnote始めてみたよ。

https://note.com/mystoria/

目次

わたしのやりたいこと

根本的に、本質的に、抽象的に、私のやりたいことって「存在をみとめたい」ってことなんだよね。存在そのものは、絶対的に肯定する。この世界にいていいんだよ。大丈夫だよ。世界はあなたの存在を祝福しているし、あなたがありのままの自分をおもいっきり発揮すること求めているんだよ。

(はあ……私の思考というか思想、世界観って完全にもう幾原邦彦監督に植え付けられてるじゃん。劇場版セラムンRのフィオレに『大丈夫よ』って言ったうさぎになりたいんじゃん結局。こわいねえ、幼少期に見せられたものって! 性癖がすべて構築されてしまう! 性癖っていうか……つまりそれは「美しいもの」として何かが定義されるということで、(善のイデアの形成か!)つまり衛宮士郎が切嗣のふるまいや笑顔を見たかのような! そうね! 私も正義の味方ならぬ、愛の戦士になりたいのよ!! 

(でも、ああいう感じで地球破壊するレベルで自暴自棄になっちゃった子に暴挙を受けながらやろうとは思わないよね。ていうより、やりたくなっちゃうけど、そういう感じは共依存の道へ進んでしまうから、よくないのだと自制する。入れ込みすぎずに。チームで。まずは自分の手に負える範囲で。なにより自分の安全と健康と幸せを徹底的に死守しながら、取り組んでいくことがとても大事なのだ。)

(あるいは、シン仮面ライダーで、ルリ子が十文字の洗脳を解く場面。もうあれ見ながら「これだよ~! ナラティヴはこれを対話によって成すんだよ~!」って思いながら大興奮してた。)

最近いろいろなものを見ていて、(この動画とか。この相談者の方、「おまおれ(お前は俺か)」でした。ちょっとまえの私じゃん、て感じでした。)こんなにも人は、実は存在不安を抱えながら毎日を生きているんだ……ってびっくりしてしまって。自己存在肯定感が盤石な人が、社会活動に邁進していけるんだと思っていたけど、(だからこそ私は、まずそこを固めないことには次の段階に進めないと思って、ずっと仕事を休んできたんだけど)どうやらそこが盤石じゃなくとも邁進はできるらしい。私はできないけど。だから、できる人は、すごいと思う。でも、できてしまうからこそ、本当はこんなに不安だってことにあまり気づかないかもしれないし(なぜならきっと人並みかそれ以上に様々なものを獲得できてしまうし、目に見えた大きな問題というものが起こらないから)、気づかれないまま、ずっといってしまうってことで……。私は、それができなくて、さっさと体調崩して日本一般社会に適応できなくなることで露呈して、めちゃめちゃ幸運だったなあ。

ハイジのように、エルサのように

無理やりたくさんの服を着せられて動きづらくなっていたハイジが、1枚1枚脱ぎ捨てながら、どんどん身軽になって、青空の下、アルプスの草原を思いっきり笑いながら駆け出していく。あの状態。あの、取り払っていく行為。なにもみにまとっていない、自分の素体のかたちがわかって。その状態であっても全然、世界もみんなも、あなたのこと見損なったり、嫌ったり、批判したり、不完全だなんて、思わないんだよ~~っていう。そういうことを実感してもらうための、サポート的なことがしていきたい。(まあ、残念ながら、世界には、そういう取り払った姿を不完全とみなすような雰囲気が蔓延しているので、実は「みんなも」って言うことができない……というか、その「みんな」の範囲がまだとても狭いというのが、とても残念なところ。自分が、そう思えることで、「みんな」に含まれる数が“+1”されて、それがどんどん広がって、いつか本当の意味で「みんな=全人類」になることができたらいいよね。I have a dreamですわ~。そんな日がいつかきっと……。)

エルサが女王のマントを風に飛ばして、立場・責任・役割……そういった重圧を下ろして。女王ではなく、ただのエルサとしての存在を始める。わくわくして、パワーみなぎって、バカでかいお城も建てられちゃうくらい。曲のラスト、高らかに響かせる声の気持ちよさ。ああいう感覚とかね~。

赤ちゃん&子供のときにもらい損ねたものを

なんかもう色々書きたいことありすぎて脱線しすぎてあれなんですが。つまり、私が提供していきたい時間がどんなものかを抽象的に表現すると、「やり切ってないところをやり切りなおそう」って感じなんですよ。なんかこう、できなかったり、あたえられなかったものを、きちんとそこまでやりなおす。高校数学ぜんぜんうまくできないとおもったら、実は九九をきちんと覚えてなかったとか、そういう。戻るって大事なわけで。あと、未練はやり尽くすとスパッと成仏する。これは私の経験談。

結局「幼少期に存分に与えられなかったこと、傷ついた経験」が今の存在不安に影響をおよぼしてるっていうのが、わりとどんな分野においても同じこと言われてると思うんですが(私も2018年頃は自分に愛着障害っていうレッテル貼ってた)それは確かにエビデンスも多いような的確な指摘であると思うし、それに気づくことも大切なんですが、「じゃあどうしたらいいの?」ってなるじゃないですか。で、そこにアプローチする手法は沢山あると思うのですが、そのなかでも、とてもシンプルで、回りくどさのない、人的・時間的コストを最小限におさえられて、なにより「本人自身の手ごたえが格段に大きい」ものが、やっぱり私はナラティヴだと思うんです。ナラティヴというか、こう、オープンダイアログ的な場で、『認証』される体験です。

だから……イメージ的に言えば、発達段階で足りなかったところをもっかいやりなおそう、みたいな。あの、ゲームとかで、スコアがC評価だったステージを再プレイしてSSSにしようぜ、みたいな。そこで集めるスコアは何かって言うと、愛(受容。存在の肯定。)なわけですよ。マリオがコイン集める感じで、私たちはハートをあつめる感じ。それは別に、もういっかい赤ちゃん返りしなさいってことじゃなくて、ナラティヴ的な場で語ることが、その代替行為になるんですよ。現在進行形で進めてるステージで衆人環視のなかでいいね集めするんじゃなくて、それをやらせてる原因のあるフィールドまで一旦もどって、多くても4人くらいで夜な夜なこっそり集まってそっちのステージを再プレイしまくるほうがいいですよ。だってなんだかんだ、不特定多数に、まだ発達途中の自分をさらすのってしんどいじゃないですか。それはもう、マンツーマンでいいと思う。自分のためだけに用意された、自分中心のチームとともに、とりくむ。で、スコアSSSになって満足したら、そもそも現在進行形のステージにもどってくる。すると、もうそこでそういう気持ち(たとえば、「みんなからいいねがほしい」)が起こらなくなるのですよ。そういうもんだと思うの! 私の経験談的には。

ああでも「思いっきりイヤイヤ期&反抗期やろう」みたいな感じもある。笑。ここはけっこうそのまま「もういや!」って感じに、思ったままの言葉を、ちゃんと口から声に出してみるの大事と思う。肺から息を出して発話すること。その身体の駆動がね、なんかめちゃめちゃ大事みたいなんですわ(実体験にもとづく感想。)だけど、それっていきなりやるのはけっこう苦しいから、そんなときに演劇(演じること)がとてもいいんでしょうね。このセリフは私のものではありません、っていうエクスキューズが持てるのって大事よね。でも、そのセリフを言ったり、ちょっとそんな気持ちになったりすることができる。それってすごい装置だな。小説もそうなんだよね。特定の誰かから、私個人に向けて言われるのってだいぶつらいんだけど、フィクションのなかの(まるで私のような)人物が、他の登場人物から耳に痛いこと言われる、だったら、まだまし。まあそれもつらいんだけど、直接自分に来てない分、緩和されるんだよね。だから、ワンクッションおかれることってめちゃめちゃ大事って

もういちど産湯に漬かりにいく。私、ナラティヴにおける認証は、本来全赤ちゃんが生まれてからミルクのようにこくこくと毎日与えられるべきものだと思っているのです。

最近読んですごくよかったのは、『冒険の書 AI時代のアンラーニング』って本の中の、別に本来大人と子供の区別なんてないんだよみたいな話です。これはあまりにも素敵な話だった。だから、「大人げない」とか「大人なのにみっともない」とか、ないんですね。これはまたきちんと引用しつつ書きたいと思います。

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