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そう思わなければやってられない。

今日はちょっと自分の中のダークな気持ちを吐き出しておこうと思います。ちょっとショックなことがあって(こんなことにショックを受けて、昨日、今日と気持ちが沈んでいて、いい大人がほんとうにバカみたいだなって思っている。でも、「いい大人が」なんて言葉は、自分にもまわりにも採用しないようにしようと思っている。「いい大人」である必要のないこころでいられる場所や時間を大切にしようと思っているから。)今も涙を目にためながら、ひっきりなしに鼻をかみながら、これを打ち込んでいる。後頭部が鈍くガンガンと痛み続けている。何から書こうかな。

昨日は本当に悲しかったのですが、ふっと「ああそうか、この気持ちをブログに書いとけってことでしょ。」って思った瞬間、少し楽になりました。なんかわかんないけど、私がここに、この瞬間の苦しみを包み隠さず書き記しておけば、きっといつか(それがいつかは知らない)偶然ここを見つけた人(それが誰かは知らない)を、ほんのすこしだけ、ふっと楽にするかもしれない(そのことを私が知ることはない)、そういう、『くしゃみすればどこかの森で蝶が乱舞』するバタフライエフェクト、この地球という物語のちいさなちいさな伏線なんでしょ、と。
そう思わなければやってられない。

そう思わなければやってられない、というのは、大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の最終回で、小池栄子さん演じる北条政子の言った台詞。ああ、こうやってまた、私は物語に救われる。そうだよね、って。やってられないよね、って。つらいよねまじで、って。おなじきもちを抱えていたひとがいるってわかって、なんか救われた気がする。それがフィクションでもノンフィクションでもおなじこと。ただ、フィクションの場合、その背後に「その台詞、その場面を描こう」とした人の意思、というものがあるわけなので、なんだかその意図に「強さ」とか「熱」とか「想い」のようなものを感じて、胸のど真ん中から支えてもらえるような気持ちになります。吾妻鏡を書いてくれた人ありがとう。伝え残してくれた人ありがとう。三谷幸喜さんありがとう。時代考証の人ありがとう。大河ドラマ作ってくれた人みんなありがとう。

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なんだか、いろいろな過去の出来事が思い出されてきて、エレクトーンの発表会で失敗したこととか、アマチュアミュージカルのオーディションに何度も落ちたこととか、志望校に受からなかったこととか。だいたい今まで、本番でうまくいかないことばかりだし、目指してたものに念願叶ったことはなくて。「あ、そっか、私、報われることがないんだ。」って、思った。「どんなにがんばったところで、望む結果はきっと得られない。努力が実を結ぶことはない。私の人生ってきっとずっとそうなんだろう。」って。

だから、「決して報われない、一生懸命取り組んだところで望む結果は得られない、そんなのばっかりな人生をどう生きるか」っていうようなことをずっと考えてきたんだな、ってことがわかりました。で、「じゃあもう、完全なる自己満足って言いきれる(言い張れる)ことをやるしかないじゃん。」ってところに、今はたどり着いた。「結果と呼べるものがなにひとつ返ってこなくても満たされることができる、そういうものに取り組むしかないじゃん。」って。それをやってること自体によろこびや楽しみがある。自分がやりたいからやっている。他人からのリアクションを目的や報酬としない。

・相手を変えることはできない。相手を幸せにしたいとか、相手にこういう行動をとってほしい、こんなふうに感じてほしいとかはすべて、相手を変えようとする行為や、こっちの勝手な押し付け。だからもう、自分にできることは、自分が思う最善の行動をとることまで。それによって相手が変わる(しあわせになる)とかまで求めてはいけない。自分には「幸せを思っての行動ができる」だけ。「相手を幸せにできる」なんて思い上がっちゃいけない。

・相手に何かを差し出したとき、受け取ってもらえるとおもってはいけない。自分にできるのは「相手と自分との間にそれを置く」というところまで。それを相手が手に取るか、自分に取り入れてくれるか、は、その人の選択であり、自分はそれに干渉できない。(干渉しようとするのはつまり相手をコントロールするということ)

・人は自分が解釈したいように受け取るので、こちらが意図したことが伝わるなんて思っちゃいけない。

・…というのが真理だと思っているけど、これって物凄く心の鍛錬が必要なことだな…。受け入れないといけないことだけど、やっぱりどうしたって悲しい。伝わってほしいし、しあわせにしたい。でもそれを望んじゃいけない。(まあ、望むのはいいかもしれない。けど結果を求めてはいけないし、結果をモチベーションにするとどこかで破綻する。)

2022年12月4日のおもいのたけメール より

なんかね、もう、ものすごい意固地になってる感とか、心を閉ざしていってる感もあるなーとは思うんですよ、客観的に。なんて苦しそうな考えしてるんだと。でもま、今はこう思っています、ってことで。そういうのを書き留めて、かつ、外に向けて出しておいてもまぁいいかなって思ったので。というのは、今の私が2年前の自分の文章を今改めて読み返すと「何この人こんな切羽詰まって苦しそうにしてるのーー!笑笑笑」って大笑いしてしまったので、もしかしたら、2年後の私がこれを読んで大笑いする未来があるかもしれないので。でも別に、2年後、10年後も同じ想いであってもそれはそれで構わない。そこはどっちでも。

ここに書いたことが、一般的な正しさを持っているとも思っていません。今の私が、自分の人生を生きていくために必要な言葉というだけです。「こういうふうに思うことで自分を守っている」ようなところがあります。でも実はそれって本当の望みの裏返しだったりして。だから私も本当は、報われたいんでしょうね~。

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で、やっぱ、報われる瞬間というのが、ナラティヴで語りを聞いてもらえた時なんだなって思う。私は報われに行ってるんですね~~あの場所に~~。だって、「最終的なアウトプット」「外側に見えるもの」「結果的に」「客観的に見て」「一般的に言って」とか、そういう尺度や価値観で見つめられる限り、私は「失敗」とか「未熟」とか「大人げない」とか「社会不適合」とか、そんなところに追いやられてしまうんだもの。

芽吹かなかったかもしれないけれど、そこにどんな想いがあったのか。そんなところをすくい上げてもらえる、その部分をこそ大事なものとして扱ってもらえる、って、なんかもうものすごいあたたかみというか、慈悲ですわ……。あと、このあたりをひたすら大切に扱ってもらう経験を何度かくりかえしていくと、現実的な失敗(現実的に失敗とみなされるもの)が、ちょっと平気になってくるんですよね。周りからどう思われてようと私にとっての真実は別にあるし! それをちゃんとわかってくれるひとがいるし! って、そこが揺らがなくなってくるんですよね。

ほんとうはこれが、子供のときに、あたりまえに全員に、等しく与えられるべき感覚のはずなのに。与えられ損ねた人間は、一定数いるんだよなって、思います。そして、「子供の時に与えられなかったから、もう自分はだめなんだ」って思ってしまっている。……ちがうんだ!! そこは!! いまから、全然、修復できる! 補填できる! ナラティヴ的態度で聞いてもらうという体験を繰り返すことで!!

「ちゃんとわかってくれる」っていうのは、「ちゃんとわかろうとしてくれる」ですね。同感と共感のはなしってすごく大事(義務教育でちゃんと教えてやれー!!)って思います。またきちんと記事にしたいですが。あと、揺らがなくなるっていうのは、もちろん盤石さは得られていくんだけど、とはいえ毎日それを否定され続けるような環境に居たらさすがに心おれるので、私的には「できるだけ揺らがされない環境(日常)に身を置く」ってことも大事と思っています。自分の心折ってくる要因は、できるだけ遠ざける、そこから距離を取る。

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