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5月16日のWSを通しての徒然(その2)

(その1)を改めて読み返してたら、同じこと何度繰り返してんだ私は!! ってなりました。言い方変えてるだけで3回くらい同じこと言ってる!! しかも別記事でもすでに話したことある話しじゃんそれ! っていう。ああ、そこが言いたいんだねぇって感じですね…。でも、こうやって「繰り返し登場するモチーフ」みたいなの、私が複数回受けたナラティヴ・カウンセリングにもあって、それって自分の中で大切なことなんだよねーって感じなんですね。

https://mystoriatelling.com/20200516ws-01/

私の考えをつくること

で、読み返してたらちょっとズレたこと書いてたかもしれないと思ったので、訂正というか追記というか。

・私がことばを語っているときにことばを語っているのは、厳密に言えば、「私」そのものではありません。それは、私が習得した言語規則であり、私が身につけた語彙であり、私が聞き慣れた言い回しであり、私が先ほど読んだ本の一部です。
・「私の持論」という袋にはなんでも入るのですが、そこにいちばんたくさん入っているのは実は「他人の持論」です。
・私が確信をもって他人に意見を陳述している場合、それは「私自身が誰かから聞かされたこと」を繰り返していると思っていただいて、まず間違いありません。
(内田樹「寝ながら学べる構造主義」)

配布資料P.15より引用

(その1)では、身につけている言語(文法・語彙・語法)によってしか自分の意見?発言?というのもは成され得ず、多言語を身に付けることは、表現を広げることにつながりもすれば、表現をそぎ落とすことにもなり、または同じ私というものからの放出にも関わらず、まったく質の違ったアウトプットを可能にすることにもなる。みたいな話をしたんじゃないかと自分では思ってます。(てゆーかこれは今書いたから今初めてまとまったこと。)

引用の3つ目。「自分の意見って思ってるだろーけど、それぶっちゃけ、過去誰かが言ってたことをあたかも自分が言ったかのようにパクってるだけだから。無意識トレス。著作権侵害してっから。」ってことですね。(ガラ悪くてすみません。)

これねー、私ー、すっごい恥じ入ったです。最初のグループワークだったかな。グループでの意見交換で、私、気がつけば自分の発言全部、伝聞だったんすよ。「Twitterでこういうこと言ってる人がいてなるほどって思いました〜」「なんか、よくこういう感じに言いますよね〜」ってなことばかり言ってて。自分がどう思ったか・感じたかってこと一言も喋ってないじゃんダサ!!ってハタと気がついた瞬間があったのですよ。

でも、案外普段の日常会話の8割くらいはそういうもののやりとりだったりするかもな〜とも思う。それで会話は繋がるし。お互いに知らなかった情報の交換はそれはそれで有意義なことだし楽しいし。だから、会話ってそういうものとすら捉えていたかもしれない。あと、自分がどう感じたかなんてのは出さないほうが安全(無難)って面もあるかな。会社とか、浅い付き合いの人相手だと。

だから、このへん意識的になるの大事かもしれない。伝聞の回線は一旦切って、自分が何を考えているかを、探っていく時間をもつことや、その行為に慣れていくこと。あまりに「伝聞完全OFFで、自分の意見を作り上げていく」ことをやってこない人生を送ってると、ほんっとにその筋肉が未発達すぎてね!!悲しくなるくらい!!(そして自分はなんてバカなんだ、今までいったい何をやってきたんだと絶望するっていう。)

あんまり引用まみれになるのもアレなんで、全部は載せないのですが、次のページ(配布資料P.16)の文章にもまたドキッとさせられますよね。で、私は特に「こういう意見におとなしく耳を傾けてくれる聴衆はなかなかいません。」の部分に何重にもアンダーラインを引きたいきもち。

だからこそナラティヴ・アプローチの場が、大切になってくるのだと私は本当に心から思う!! 私の今までの経験上、どんなに親身に話を聞いてくれる相手だとしても ①「そうなんだね」という同意止まり か、②「でもこういう考えもあるんじゃないかな」という提案 の2パターンしかなかった。(もちろん①もとっても重要で、特に私は「そうだよね〜わかるよ〜」って言ってもらわないと心が干からびる人間なので、もちろんこれもとっても必要!!だけど、なんだろ、前進がないのよね)(あと、私自身が聞き手になるときも、その2つの返答パターンしか持ってなかった。)ゆえに、自分に対しても、そのどちらかで心の整理をつけていくしかない(他の解決方法は存在しない)のだと思ってた。まさか、「それってどういうことなのかもっと知りたいから、教えて(言語化して)くれる?」と私自身の深掘りを促してくれるいう、第三の道があったなんて!!

ふと、あの、もしかして美容師さんやマッサージ屋さんがちょこっとナラティヴをかじって実践したらものすごい売れっ子になるんじゃないかと思った。(キャバ嬢は言うに及ばず。)こういう場所ってその技術を提供してもらいにいくのが基本だけど、「純粋なそこのサービスメニューを求めて:日々の鬱憤を吐き出させて欲しくて」の比率が人によって(状況によって)違うと思ってて。ときに1:9くらいな日すら私にはあった。
ああ、「ナラティヴ的なお話聞き場」が町内にあれば、とりあえず話がしたくて病院にいくじいちゃんばあちゃんも減るのではないか・・(ちょっと偏見入っててすみません)

あとねえ、本当にこういう問いかけを幼き頃から日常的に浴びて育った子供は、どれだけ精神衛生を保つことに長けるだろうかと・・・思うのだよ・・・。自己浄化作用というか、なんか、ちゃんと下水処理施設を自分の中に持てる子になれるっていうか。日々外からいろんな不純物(ストレス)を受けて、ちょっと気持ちに淀みができても、浄化スイッチON!すれば、また飲料水レベルに綺麗な水に戻せる力(スキル? それは自転車に乗れるようになるくらいのもの)を、会得できるって、なんてすばらしいことだろう・・・。もちろんそれは自分だけでなく、他人の浄化を手伝ってあげることだってできるんだから。

「”共感”や”傾聴”」

これらの単語についてグループワークで結構話したような気がします。今回のWSでこの言葉が登場してきた流れとは離れてしまうかもしれないのですが、このあたりから連想してつらつら思ったことを書き残しておきます。

あまりに広く知られてしまったがゆえに、形骸化してしまってはいないか。私自身もふくめてだけど、その字面から「なんとなくこういうことなんだろう」って想像して(それで分かった気になって)、適当な(いい加減な)実践が巷に溢れてはいないか。

私は心理学を学んだこともないし、傾聴を学ぶ本やセミナーに参加したこともない。だから、共感という言葉が心理学の分野においてはどんな定義なのかも知らないし、傾聴ってふつうに聞くときとどんな違いがあるのか(どんな態度を付与すれば「聞く」は「傾聴」に進化するのか)は知らない。
そんな私はなんとなくだけど、共感とは『「そうなんだね」って頷くこと』なのかなーという認識を持っている。
でも、「共感」という言葉そのものをもう少し、自分なりの理解を言葉にしてみると・・「相手の気持ちに同調すること」かな。同調する、というのは、自分の最大限の力をもって、相手の感じている感覚を自分の中でも再現してみること。その人の役柄になりきったアドリブ劇ができるくらいに。
だけど、例えば会社の配布資料に「相手の話を聞くときには共感が重要です」って書いてあったら、そこまでのことだとは思わず『「そうなんだね」って頷くこと』と読み替えそうだなあ。なぜだ。

「傾聴」のほうは、セミナーのなかでは、それほどのものなのか? という問い直しがあったように私には思われました。その辺についてもなんか、思ったことがあって・・・。えーと。私は、「普通の(通常時の)聞く」=Aと、「普通じゃない(何か特別な)聞く」=Bは、あるに違いないと常々思っていて。でも、Bが、世間一般で言われるところの「傾聴」という技術かはわからない。(そもそも世間一般で言われるところの傾聴が・・・つまり、傾聴セミナーで傾聴についてどんな説明がなされているのか)を知らないので。
で、私が思う(探し求めていた?)Bは、まさにナラティヴ・アプローチの場で用いられている聞き方です。また、先日行われたWSの「耳の調律」とかも、きっとそう。
https://narrativeassembly.com/2020/1173/
(私は参加していませんが。ぱらぱらと資料を見たり、参加された方のレポートを読んだ限りでは、そんな感じがしてる。でもこれももっとちゃんと読んで咀嚼したい!!)

あと、やっぱり広く知られるにつれて、簡単な3STEPとかにまとめあげられてしまう。共感も傾聴も、いちばん大元の提唱者みたいな人の理念は、もしかしたらもっと壮大だったかもしれない。でも、広まるにつれ、「まずは『そうですよね』と頷きましょう」みたいなお料理の手順になってしまう。(いや、広めるための簡略化・親しみやすさ・誰でも再現可能っていうのはとても大事だと思う。)
っていうときに!! 私は『ナラティヴ・セラピーの会話術』の以下のくだりが、すごく、ものすごーーーく大事だなあ、と思うのです。

何がナラティヴ ・セラピーかであるか」と具体的には定義できないものの、その根底にある思想を共有していることで、ナラティヴ ・セラピーであるとみなせるのではないかと筆者は考えています。それは、人を問題の主たる責任者であると位置付けることを拒絶し、ものごとの「本当の真実」は存在せず、ただそのことを語るストーリーが存在すると立場を取ること、そして、その人自身に自分の人生を生き抜いていける資質、資源、能力が必ずや存在しているという仮説を持っていることなどが挙げられるでしょう。つまり、その人には必ずや希望があるのだという信念を持っていること、と言い換えてもいいでしょう。

国重浩一『ナラティヴ・セラピーの会話術』P.12より引用

はあ・・・声に出して読みたい日本語No.1。看護師さんって戴帽式のときにナイチンゲール誓詞を暗唱するみたいな話を聞いたことがあるんだけど、それと似た感じで、折に触れ私は唱えたい。私にと

ってのナラティヴ誓詞。

ふう。一旦ここでまた投稿しよう。全然読み返してないけど。数日間にわたって書き連ねていってるから、書いてるテンションが凸凹かもしれんけど。投稿!!

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