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幽閉され続けていた「外に出たがっていた言葉たち」が、ついに釈放された喜びで暴徒のように押し寄せてくる

目次

「12月8日のカウンセリングの振り返り」という名の脈略のない殴り書き

12月8日のカウンセリングの録音を頂いたので、改めて聞き返してみました。聞き返すという作業も新たな発見がありすごく面白くて(映画なども、初見のまっさらな状態で観るのも楽しいけど、2回目、全体のストーリーラインが分かったうえで見直すと、落ち着いて細部にまで注目できておもしろい、あの感じです)またちょっと色々書き留めておきたいと思ったので、実際に話した言葉の書き起こしなども交えながら、書いていこうと思います。

その瞬間思い浮かんだ全然脈絡のない話なども交えているので、めちゃめちゃ長い上に、何の筋立てもなく、話があっちこっちいってます。たぶんわけわからないと思います。なので本来は記事を分けるとか、わかりやすくなるような編集をしたほうがいいのですが、今は「まずは脳内全部出し」のターンなので、未編集でお送りします。

気づかぬうちにあたたかな養分になっていた

07:00~
「前回(9月22日)の録音を聞いて、改めてしみじみ感じたのは、ああなんか、やっぱりこの時に話したり頂いた言葉だったりがすごく自分の中で、気づかぬうちに養分になってというか、具体的な……アドバイスとは違うんですけど、具体的な情報を頂いたりもありましたし、そういうのも含めてすごく、ああなんか本当この時のものが、Twitterを辞めることであったり、今までの活動にいったん終止符を打って、幕を下ろして次に行きたいんだっていうところを……変な後ろ髪を引かれるところが今は全然ないんですけど。それってやっぱり9月22日のお話、時間のおかげだったなって感じたり。」

この「気づかぬうちに養分になって」というのが、ものすごくナラティヴにはあるなと思います。じんわ~り、気づかないところで、効いていること。エナジードリンクみたいに即効性はないけど、肥料のように自分という土壌にまぜこませることで、1か月後、3か月後の自分の在りように、ほのかだけれどあたたかいパワー(真冬にコンビニで買ったおでんの容器をホッカイロ代わりにするような)で、実は支えてくれていたんだ、って気が付くような感じです。(だからやっぱり私の中のイメージは無印セラムン最終話なんですよね…またこれもいずれ書く。)

ナラティヴ・カウンセリングは、具体的なTipsを求めに(教わりに)行くところではないんですよね。どうしても、この効率主義社会に生きる私たちは、何か困りごとがあったときには、「専門家をたずねる→診断してもらう→専門家からのフィードバック・処方箋(薬)・ノウハウを受け取る→それによって問題が解決される」っていうプロセスを踏みがちだし、問題解決ってそういうことでしょって思いがちなんだけど。

いや、それは間違いなく問題解決のプロセスだし、基本はそのプロセスを踏むのがいいと思います。専門家を否定しているわけでもないです。専門家が持っている専門知識・専門技術というのは人類の叡智の結集ですし、活用されやすいように長い時間をかけて最適化されて、その恩恵を我々はどれだけ受けているかという話なので。私はノウハウも薬も全く否定してないです! そのおかげで生き延びています!

ただ、それでは解決しきれないものが出てくることがある。それはなにかといと、「私」という誰とも違うこの世界で唯一無二の一個体を悩ませる事柄。先述の専門知識やノウハウは「人間の身体や脳や心理の構造とはこういうものだ(みんな共通である)」という大前提のもとに組み立てられてる。“そうじゃない”(共通ではない)という見方が必要になってくるときもある。「(他の誰でもない)私」に、何が起こっているのか。「(他の誰でもない)私」は何を感じているのか。そういうときは「自分のなか」とか「自分自身」をつぶさに点検して可視化していくこと(自分についてひとつひとつ言葉にしていくこと)が必要になってくる。

私たちは「どこかにこの自分の困りごとを解決する方法論や薬や手だてがあるはず」と考えていて、「その知見を持つ人(専門家)」に「治してもらう/教えてもらう」ことが日常になりすぎている気がする。「解決策は自分の外側にあって、他人から与えられるものだ」と考えてしまう。モヤモヤを解くカギは、もしかしたら自分の「内側」にあって、「自分が」主体的に取り組むものかもしれない…とちょっとそんな考えも頭の片隅においてみるのもありかもしれません。

迅速な解決、明確な効果・効能、即効性を求めてしまいがちなところもある。そもそも自分が自分に対して「すぐに治そう」「早く解決しなきゃ」って思いがち。でも、それをちょっと抑えてみるのも大事なときもあるかもしれない。「すぐに解決されない状態が続くことを、自分に許す」ということですね。そのくらいののんびりとした心持ちを、ちょっとだけ受け入れてみる。時の経過自体がもたらす効能にも少し頼ってみる。つまり『時間が解決してくれることもある』ってことなんですけど……そうすると思い出すのがこのセリフ!

そりゃそうだよ ずっと蓋をしてきたんだから

「時間が解決する」っていうのは「問題と向き合い続けて少しずつ消化していく」ってことだからね

「封印していたらいずれなかったことになる」って意味じゃないよ

今日初めてあの失敗に向き合って これから少しずつ悲しみが和らいでいくんだよ

コウノスケ『ゴダイゴダイゴ』13話より

もう……そ、そうだよなあ~~~~!!! って思います。ものすごくハッとさせられることをシンプルなセリフに収めて、もう、なんてすごい漫画なんだと思いますが! 向き合うしかないんですよね、ほんと。それしかないんだよ。なかったことにして見ないふりしている間は永遠にそれにとらわれ続けるということなのだ。古今東西ありとあらゆる物語を通じてもう何万回と語られてきたことなのに、なかなかこれができないのじゃー。……ただまあ、それをわかったうえで「今はあまりにも余裕がないから、一旦箱詰めしてしばらく棚上げしておく」というのはもちろんありと思う。でもそれはいずれまたどこかのタイミングで蓋をあけていくことになるような気がする。

(ちなみに、この『ゴダイゴダイゴ』いう漫画、ほんっとーうに面白い良作なので、ぜひ多くの方に出会っていただきたいです。なんと、少年ジャンプが運営する公式サイト『ジャンプ+』で全話無料で読めてしまいます! 閲覧数に応じて原稿料+αが上下する仕組みらしいので、少しでも気になったらぜひ1話だけでも……!!)

……ああ、なんだかもう、自分のなかに何年も幽閉され続けていた「外に出たがっていた言葉たち」が、やっと釈放されたので、俺が俺もとどんどん押し寄せてくる~~もはや暴徒だ~~あ~~。読みやすさも順序立てもなにもないけど、とりあえずひとりひとりにマイクを渡してあげようと思います。一旦全部出しきって、整理整頓はそのあとだ。それがこんまりメソッドだ。

ほんとうに心を通わせると、「永遠の心の循環」がうまれる

「2020年6月くらいに、そのときのオウルチームの方からお手紙をもらって。あのお手紙もすごい嬉しかったなと思って。あの時、もらった時もすごく嬉しかったし、昨日読み返しているときも途中ウルウルしてしまうくらい響く言葉があって。やっぱりこういう嬉しさを知ってるから……この嬉しさをみんなにも知ってほしいなーみたいな。ここがやっぱり大きいんだよなっていうのがあります。(8:53~)

うんうん。これも本当にそうで。これはもしご本人に許可を頂ければその部分をご紹介できればなあと思うくらいです。そこに書かれた言葉とか、そこに至るやりとりありきのことなので、ここの部分だけ書き起こしても何も具体的なことがお伝えできないのがもどかしい。

こういう嬉しさってどういう嬉しさかというと、「ほんとうに心を通わせる」って、こういうことなんだ……って、ほんとうにあたたかくてやさしいものを心に受け取る感覚、という感じでしょうか。心の奥にある深い気持ち(普段日常ではおいそれと外に出せない、大切なこと。安易に人の目に触れさせて、軽く扱われたり、ないがしろにされたり、笑われたり、批判・批判されてしまわれぬように、本能的に守っている部分)を深い配慮をもちながら大切に受け取ってもらえて。さらに、私の言葉がその人の中に入り込んだ結果、その人の心のなかで起こった現象(それは本来目に見えないもの。私が知り得るはずのないもの。)を、丁寧に真摯に伝え返してもらえて。……というやりとり。もうそれだけで永遠の心の循環がそこに生まれるんですよね。たとえもう今後一生その人と会うことがなくても、新しい言葉の供給・応酬すら必要ないと感じられるくらい、この日の出来事は永久機関となって、その人との「絆」のようなものになる。

「読み手ありきの文章(ことば)」として書くことの効用

14:30~あたりで、カウンセラーさんから「事前の1万文字長文メールを書いたことで『何』が外れたんでしょうか?」という質問を頂いていました。実際の会話の中では「1万字の言葉そのものをリリースできたのが大きかった」「それを誰かに読んでもらえることも大きい」といったことを話していました。たぶん「どの部分を言葉にできたことが大きかったんですか?」という質問に私が取り違えてしまって答えているような様子でした。

なので、改めてきちんと問いに沿ったかたちで言葉を紡いでみたいと思っ……たのですが、『何』が外れたのか? と想いを巡らせてみてもなかなか難しく、出てくる感じがなかったので、やはり上記で書いたように「具体的な言葉の文字数」をリリースできたことが大きかったということになりそうです。

あとは、この「1万字長文メールとして長文を書く」という“プロセスそのもの”が助けになってくれているということだと思います。それまでも「ノートに脳内にうかぶ言葉(感情の吐露)をそのままノートをわー--っと書きなぐる」というのは何度もやっているのですが、やはり「読み手ありきの文章」として書こうとすることで(たとえ結果的にほとんど独白でも)ほんの微妙な違いが生まれて、その微妙な違いこそがミソなのではないかと思われます。「状況が分かるように誰かに説明しようとする文章」っていうのが、いいんでしょうね。(文章=視覚的に捉えられる。読み直すことができる。というのも良いのでしょう。)

「みんながわかるような言葉を自分で絞り出して説明するわけですが、おそらく、他人にわかってもらうように説明するという過程の中に、ちょっとこれは自分でもおかしいなとか、自発的に気づくきっかけがあったのかもしれません。人から言われて気づかされるのではなくて、自分から矛盾や不整合に気づいて修正していくと、結果的に正常化が起こってくるということかもしれないなとは思いました。

斎藤環『やってみたくなるオープンダイアログ』P.62

この文章は、聴き手に語り(喋り)を聞いてもらう場面について書いたものなので、厳密には文章のことではないのですが、共通するものはあると思います。まさにこういった現象が起こった瞬間もありました。カタカタカタカタッとキーボードに文章を打ち付けて、とある文字列を勢いに任せて打ち込んだ直後に、一呼吸ののち、「……え?」となった。何を言っとるんじゃ自分! と自己ツッコミ。でも、そのおかげですごくおかしな思考回路になってたな、と「自発的に気づ」くことができ、いやうんおかしいわ、これはおかしい、えーっとつまり……と、「修正」を加えていき、結果、洗脳がとけたかの心地になったことがあります。

だから私、すごく何かモヤモヤしてしょうがないことがあるなら、「誰かに送るつもりの相談メール(でも実際には送らない)」というのをぜひやってみるといいと思うんですよね。送らないとはいえ、本当に送るつもりで本気で書きます。……これ、だまされたつもりでマジやってみろ! と思いますよね。無茶苦茶時間かかるし、説明すんのクソ難しい! ってなって、もうやーめた! ってなりそうになるけど、そこを耐えて書きあげる、っていうのは、絶対なにかひとつ、一歩進むと思うんです、何もやらないでモヤモヤモヤモヤモヤと繰り返すだけの日々から、何か1歩。1歩はすごく大事。

きっと私のなかでは、「カウンセラーさんに送る」というのが「途中でやめてしまわずになんとしても書き上げる」というモチベーションの維持につながるのでしょうね。ブログもそんなところがきっとあるのでしょう。

あと、学習において「人に説明できて初めてきちんと理解したといえる」「人に教えることが自分の学び(復習)にもなる」というのもよく言われることですしね。感覚的には理解してるけど、きちんと説明しようとすると案外難しいとか、よくありますし。「自分の人生や経験」とか「自分の気持ち」という科目についてのレクチャーを他者にするということですね。

あと、毎夜布団に入ると色々と考えてしまって眠れないっていうのもよくあると思うのですが、そうなったら、どうせ眠れないんだし暇つぶしがてら「紙に書く」っていうのやるのすごくいいと思います。私とても頻繁にやります。頭の中で思うっていうのは、まだぼんやりとした霧状の状態でしかないから、ちゃんと掴むことができなくて、実は「考えているようで何も考えてられていない」状態に近かったりするんですよね。だからこそ、「文字」という可視化された状態にまずは定着させること、すごく大事だと思っています。

言葉をお産のように排出する

私は事前の1万文字メールに「この言葉をお産のように排出できたことで」という表現を使っていたのですが、それをなぞってカウンセラーさんが「今回のこのプロセスっていうのは、どういうお産だったのでしょうか?」(26:30~)と問いかけてくれました。対話の中では、「必要だったなと思う」「通過儀礼」「一皮むけるためのどうしても必要なお産」「改めて自分の見直しと再セットアップ」「改めて自分の構造・かたち・塩基配列、のようなものがどういったものか。何年分の観察記録も踏まえたうえで、すごく自分の解像度が上がったお産」と答えています。

私けっこう前々からそもそもナラティブ・カウンセリングの場に対してお産のイメージを持っているんですよね。カウンセラーさんは、言葉の助産師。生まれ出たがっている言葉を、オギャー!と叫べるまで、汗水たらしながら、手を変え品を変え、必死にサポートしてくれる感じ。

どういうお産だったか? を改めて考えてみて、なんかこう「大人になる(成体になる)」のようなイメージがわきました。セットアップという言葉も上で出てますが、これからの活動に向けて、なんか内部構造が切り替わった。成熟した生命体として、DNAに刻まれていた使命をサステナブルに遂行していくために、ソースコードを書き換えた。自分の在り方をより肯定的にとらえられるような修正パッチがインストールされた。そんな感じ。

繰り返す事柄が自分を自分たらしめる

「2年前くらいから繰り返し繰り返し同じことを言ってて。だからやっぱり繰り返すものなんだなって思って。今回「あのことをいつまでも繰り返し考えてしまっていて嫌だな」と思っていたけど、そもそも繰り返すものなんだなっていうのもあったし。繰り返すうちにフェードアウトしていったり。でも、繰り返すことってやっぱり「自分を自分たらしめる」じゃないですけど、そこを気にしているからこその自分(という面もあると思う)。繰り返しポイントが5つ6つあって。そう思うと、今回嫌だなと思っていたことも、そのうちのひとつ。繰り返し考えてしまうことが生活を侵食するほどであればそれは問題なので対処が必要だけど、でももうそういうプロセスなんだなって思った。(39:30~)」

繰り返し考えてしまうのは、やっぱりどうしてもそこが気になってしょうがない性分だからであって。それって、自分を自分たらしめる“個性”とも言えるのではないかなって思います。何に問題意識を感じるか、何に焦点を当てて生きていくか? という部分も、そういうものな気がしてます。
っていうのは、ある知人は猫が大好きで、保護猫に関する問題意識がすごく高く、それにまつわる何かがしたいということを言っていて。ああ、私の場合は「ナラティブ」や「生きづらさ」というテーマを自分のなかに持っているけど、その人の場合はそれが「保護猫」なんだなって思いました。そうやって、各人がどうしても問題意識をもってしょうがないものに各々が取り組んでいくことで世界は回っていくものだと思っているので、繰り返し考えてしまうくらい気になることって大事だと思うのです。

あと、カウンセリングのなかで「演劇(舞台)」の比喩を用いて話をして、オウルチームの方にも拾っていただいたりしたのですが、よくよく考えると「演劇」も同じ演目(同じ場面・同じセリフ)を何度も繰り返すものだなってふと気づきました。練習として何度も繰り返すことで磨かれていくし、繰り返すうちに考えなくても勝手に体が動くくらい自分にしみこんでいく。歌も、うまく歌えないところは、体に覚え込ませるために、とにかく愚直に反復練習。そこだけ何度も何度も歌い込む。なんだか、そういうことともつながるような気がしました。

その他、オウルチームの言葉で耳に残ったこと

歩みつづけている姿/螺旋階段

「歩み続けている姿がイメージとして浮かぶ」「螺旋階段をあがっていくように」(59:10~)というふうに話してくださって、それはかつてより自分のなかにも共通するイメージとしてよく浮かぶものなので、自然なこと過ぎて(引っ掛かりとか驚きがないということでもあるので)逆にスルーしてしまいそうになりそうでしたが、共通するイメージをもってもらえるってとても幸せなことですよね。

今も「芯の部分」は何と幼稚園の頃と変わらずぐるぐる悩むばかりですが ――でも「バネ」が同じ所をぐるぐる回っているように見えても 少しずつ螺旋で登って行っているように 私も 遠くから見たら一本の棒のように まっすぐに見えていたりするのかもしれませんね

羽海野チカ『3月のライオン 』11巻 あとがき より

ぐるぐる同じところを回っているようで上へ上へっていうのは、羽海野チカさんのこのお話で私のなかに入ってきたように思います。もしかしたら違う作品でも見聞きしたかもしれないけど、螺旋階段という言葉を出すときに思い出すのはいつもこのコマです。(11巻も2015年かあ。ライオンの作品で描かれることもずっとずっと楽しみにしています)

1日1日レベル、その渦中にいるときには「ああもうやろうと思ってることが全然なにも進まない」と感じていても、過ぎ去ってみてから3~6カ月くらいのくくりで振り返ってみると、いやあ、それなりに色々やってるし、6カ月前にいた場所からは間違いなく別のところに来ているし、生まれたものも、得た学びも、確実にもある! とおもえます。

最近、2020年初頭=鬱で倒れた直後の数か月の日記見てみたら、仕事探しだの放送大学で学ぼうかだの、会社辞めた翌日くらいからもうめちゃめちゃ動いてて笑ってしまった。今の私からすれば、「いや、おまえは、休め! 休むっていうのは、生産的なことを何一つしないことだ! 寝転がって青空を流れゆく雲をぼーっとみつめるだけの1日を過ごすことだ! もちろんスマホもテレビもラジオからも離れて! 一切の情報を遮断しろ! そんな日々を数日間は続けろ! 禁断症状が起こり始めるだろうが絶対にスマホは手放せ! 封印しろ!(百歩譲って1日決まった時間に15分までだ!) なにかやりたくなったらまず取り掛かるべきは『何が食べたいか考えること』『自分の食べたいものを自分で料理すること(めっちゃ時間かけていい)だ』!」って言いたくなるね。)

情報デトックスって絶対に必要なんですよね。昨今、情報過多すぎるんですよね。(本当に自分に必要な情報って、実はそう多くないんじゃないかって思っています。)パンクしちゃいそう/しちゃったんだから、まず自分のなかに余白をつくらないと。パンパンな本棚には新しい本(“今この瞬間”の自分に必要な情報)を収納することはできないし、机の上が散らかってたら、手紙も書けない。まずは、「机の上をもの全部片づけて、拭いて、スッキリピカピカ、クリーンで気持ちの良い環境を整えて、その心地よい空気感のなかに身を置く」っていうの、ほんと大事だと思います。調子崩しちゃったらまず最初にやることは掃除! 断捨離!(休むのと料理のあとね)

タコ足配線のコンセント

「たまにタコ足配線のような状態になってしまうことがあるので、何年かに1回は、これは抜いておこう、これは差し替えようといったことをすることがある」(1:11:43~)と話をしてくださいました。あー! これはとてもわかりやすい、万人にイメージしやすい、すてきなイメージ映像ですね。「漏電して危ないから」と、そのとおりですよ。

そうだよね、体調崩して動けなくなるってのは、もうとうとう発火しちゃったとかそういう状態だよね……。そこに至る前に、そのヤバさに気づいて、抜く、整理する、ってほんとう大事……大事なんだけど、やっぱり人は「まだ大丈夫。自分は大丈夫。いける、いける」って思っちゃって、「ほんとうに安全に運用可能しつづけることができる適正値」を守っていけるようになるのって、やっぱり、めちゃくちゃ痛い目みてからになっちゃうものなのよね……私のことなんですけどね……だから、こんなバカな同じ轍を踏んでほしくなくて、こうやって長文書いてるわけだけど、まあ、残念ながら届かないんだろうなっていう切なさもあるよね……。転ばぬ先の杖っていうのは理想・幻想でしかないのかなあ……。

私の今年の大きな反省のひとつに「詰め込みすぎた」というのがあるのですけど(これもカウンセリングの中で語って、大事なものとして受け取ってもらえました)これもまさにタコ足配線でした。自分の電源タップ数を正しく理解していなかったレベルで見誤ってしまったので、猛省して認識を改めました。もう、「延長コードは使わない! 3つ口のやつも使わない! 壁にある2口を直接使うだけにする! それが私の許容量!」と、自分のちっぽけさを自覚して、タコ足自体作らない方針をやっていこうと思っています。そもそも、「タコ足配線をつくらないようなスローライフを生きていきたい。アドレナリン放出しながらたくさんのことを忙しなくやっていくんじゃなく、セロトニンを出しながら一つのことにゆっくり丁寧に取り組みながらのんびりと暮らしていく生活がいい。」っていう価値観に変わってきたところもあります。

そういえば、定期的に身体のメンテナンスには通っているし、日常生活のなかで姿勢とかストレッチとか色々工夫しているつもりなのに、どうにも腰に慢性的にな違和感があって、困ってます。きっと何年分もの相当な蓄積があって、ちょっとやそっとじゃ完治しないんだろうなー。でも引き続きこの腰の悪さへの試行錯誤は続けていかねば! と思います。漫画家の冨樫義博先生も「皆さま、くれぐれも腰は大切に。」とコメントでおっしゃっていますし。(私はこの言葉を本当に重く受け止めたいと思う。冨樫先生が私たちにくれている転ばぬ先の杖だと思うから。)健康体をもつ元気なおばあちゃんになりたい!

最近の私は、以前よりは「ヤバいライン」を見定められるようになってきました。自分的な判断基準は「『今日はあれがたべたいな~』と欲する味覚が思いつくこと、簡単にでも料理をしようと思えること」です。これが満たされないのはもうイエローカード。やることをいくつか減らすことを自分に課します。うっかりイエローカード無視しちゃってもっとやばい域に達した時に「有無を言わさぬセルフドクターストップ」も自ら強硬策としてかけられるようにもなってきました。不調という身体からのサインをキャッチできるようになったし、自分を守るための主張をきちんとするようになった。

私、子供のころに見た『ナースエンジェルりりかSOS』というアニメのセリフがずーっと心に残り続けてて。今でいうプリキュアのような変身魔法モノで、ナースっぽい魔法少女に変身して敵と戦うアニメです。あるとき、とある敵が「痛みを感じなくしたらどんなに攻撃受けたとしても戦い続けられて無敵じゃね?」という思い付きから、痛みを感じない魔法を自分にかけて主人公と戦います。途中までは思惑通り、無痛&無敵状態となって主人公を絶体絶命のピンチにまで追い込むのですが、とどめを刺そうとした瞬間に激痛が彼を襲い、自滅します。それを見て主人公は「痛いという感覚は、とても大事なもの。身体の不調を教えてくれる。だから、痛覚をなくすなんてことは、こわいことだ」というようなセリフを言ったと思います、うろおぼえですが。当時は「痛み=いやなもの」という単純な理解だったので、その考えにとても衝撃を受けたんだろうと思います。

今改めて読んでも、本当にどれだけ大切なセリフだろうか……と。私もこの敵と同じように、痛覚を遮断して、何も感じないようにして、仕事して、同じ末路を迎えたんだよなあ。でも、痛覚遮断しないと満員電車なんて乗れないし、仕事上毎日のように遭遇する理不尽にも耐えられないよねえ……。でもさあ、そうやって、痛覚遮断してても破滅が待っているんだよう……。痛覚遮断しないで生きていける暮らしをしていきたいし、痛覚遮断することがあたりまえではない社会になっていくとよいよねえ……。

そういえば、少し前に腰の話しましたけど。今こうやって「腰がずっと違和感なんだよなあ」ってちゃんと思えていることは、すごく良いことだと思ってます。数年前まで、まったく自覚症状なかったんです。肩こりを感じて通っていた指圧で「確かに肩こりもひどいけど、もっとひどいのは腰。ちょっとこれは本当にひどい」と言われ続けていました。でも、何度言われても全然ピンとこなかった。「はあ、そうなんですかあ・・・?(ぽか~ん)」と。明らかに今より悪い時期だったにもかかわらず。感覚が完全にご臨終してた。めちゃめちゃ怖いことですよね、だってきっといつか突然の大病に見舞われたろうから。だから最近「腰がおかしい~」というのは、困ったなあ~という気持ちも感じつつ、一方で「ああ、私、ちゃんと違和感を感じられる正常な感覚を取り戻しているなあ。身体からの声をちゃんとキャッチできるようになったな~」とほのかな嬉しさも感じたりしています。

ナラティブに「偶然出会う」機会を増やしたい

こうやってちゃんと聞いてもらえる体験・大切にされる体験を通して、やっと自分のなかに実感と納得をもって「そうだよな」ってやっと学べたことであって。でも仮にこのことを知らなくても、知らないのはその人のせいじゃない。それは、その人の周りの人たちが、そのことをその人に教えてあげなかったせいだって思ってて。なんだけど、これを知っている人がそもそも、人口がすごくすくないんだよなって思ってて! だからこれに気づけない人がすごく多いんだよっていう。…っていうところをすごく感じているからこそ、まあ……増やしていきたいなあ~って。(1:19:00~)

ちょっとそこまでの文脈ありきの話なので、これだけでは何の話かわからないかもしれませんが。ただ、すごく語気荒く語ってて……確かに本当にこれはつねづね強くおもってること……。大人になってから「どうしてこんな大切なこと、今まで教えてくれなかったの、誰も!!」と叫びたくなることは多くて。「これ、絶対学校で、義務教育で教えるべきことでしょ! 全国民が知ってなきゃいけないことだよ! どうしてカリキュラムに入ってないの!!」とか……(英語教育でも多いよな…!)まあ、そんなのがあるんですけど。

ただ、ちょっと、今あらためてゆっくりと読み返してみて……人口はもしかしたら一定数いるのかもしれない。数というより、遭遇率の話かもしれない。「私は出会えて来なかった」「最近になってやっと遭遇できた(もっと早く遭遇していたかった)」ってことで。でもまあ、いるところにはめちゃめちゃいるんですよね。生息分布に偏りがあるように感じる。もっとまんべんなくいてほしいなあっていう願いですよね。電信柱並みに配置されて、出会える確率が増えてほしい。

でもその一方で、私自身がやっとリーチできるようになったって部分もある気がするなあ。人は、見たいもの、聞きたいものしか受け取らないからねえ。視界には電信柱が入ってても、そこに電信柱があると認識していない というのは往々にしてあることだ。あとやっぱり、消極的だと、出会えるものってどうしても少なくなってしまう……。なかなかむずかしいもんだいです。

まあだから私は、ナラティブ伝道師として旅をして、各地で出会った人にナラティブを伝える(体験してもらう)ことをしたいのよね。思いがけない場所で「偶然出会う」ことをたくさんたくさんつくりだしたい。このブログもそうだし、何かしらやっていく予定のYOUTUBEとかも、そういうものを願ってる。

今日のこの機会がこのタイミングでおこなわれた意味

いちばん最後に「今日のこの機会が、このタイミングであったっていうのは、あなたにとってどういうことになった・なりそうだろうかなあとか、少し丘の上に立ってじゃないですけど、聞いてみたいような気がしたんですけども」(1:22:40~)と聞いてもらいました。この時も私ちょっと質問を取り違えてしまって「どんなものだったか」という観点でお話をしてしまっていたので、ここで改めてきちんと!(この質問、よくよく考えたら私の大のお気に入りの問いかけ「こういったことを考えたり気づけたりしたことははあなたの人生にとってどんな意味があったと思いますか?」だったよね!もう私ってば!)

卒業公演に立ち会ってもらった、みたいな感じでしょうか。卒論、卒業制作とかそういうたぐいの。ここ2年間の様々な取り組み、挑戦と失敗と反省、フィールドワーク、実験、文献にあたったこと、そういったことの総まとめ。でも、プレゼンとかそういう固いイメージではなく、芸術系短大の卒制っぽいかんじ。

この時点に置ける、自分のこれまでの学びや想いやスキルをつぎこんだ集大成としての作品の上演(上映?)に立ち会ってもらった。この2年間の出来事や学びってこういうかたちとしてアウトプットされたんだね、というところを鑑賞してもらった。一つの区切りになるセレモニーのような意味合いを感じます。加えて、「とはいえ、あくまでもこれは学生としての集大成。これからは、この学びと決意をもって、社会に出ていくのよ!」と、そんなタイミングに思われます。

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