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ナラティヴってなんだろう

ナラティヴってなんなんだろう。

ナラティヴをたくさんの人に知ってもらいたいけど、じゃあナラティヴってなに? って聞かれても私は上手く説明できない。そもそも私がナラティヴだと思ってるものも実はいわゆるナラティヴではないかもしれない。こんなこと考えていたら「知っている」ってそもそもなんだって話にもなるんだけど。(みたいなことはやはりここ数日読んでいるスピノザにすごい影響されている感じはあるんだけど…)

私がナラティヴだと思っているものは、

  • 2020年にナラティヴセラピーと名のついた対話の現場で私が感じた、今まで生きてきて一度も体験したことのない『ちゃんと話を聞いてもらう感覚』のこと
  • 逆に言えば、『ちゃんとその人の話を聞く』スキルでもある(義務教育で教えて欲しいし、このベースをみんなが持っている社会ってものすごくまろやかになると思うんだなあ・・・)
  •  言葉にならないこと、上手く言えないこと、混乱していて支離滅裂なこと・・を当たり前に許してもらえる場所。そんな状態が前提ですらある。(まとまってないことやつたないことは、恥じることでも、恐縮することでもない! 今の社会は「自分の考えていることを言葉にできる」「相手にわかりやすく説明することができる」ことが生存のための絶対必要要件になりすぎてる気がする。それがマナーだ…とか、過剰に思わされやすい気がする。もちろんそんな一面もないわけではないけど、社会の隅から隅まで余すとこなくそういう場所になってしまったら、「自分はそんな最低限のことすらできないんだ」と追い詰められて閉じこもるしかなくなる人、あるいは劣等感を感じ続けるしかない人が生まれてしまう。社会の中に「まとまってなくてあたりまえだよ。一緒にやろう」と言ってくれる場所、”自分のなかにあるモヤを言葉に落とし込む作業場/協力者”がもっと当たり前に必要だと思う。マッサージだって、歯のメンテナンスだって、人の手を借りるじゃないか。なのになんで考えをまとめることについては、基本的に独りで自己完結しないといけないもの(社会人スキルとして身につけるべきもの)って思われてるんだ!)
  • 診断をされる場所ではないこと。既存の枠に当てはめられるのではないこと。アドバイスの授受が行われる場所ではないこと。(聞き手にその意図がないこと。)(世間一般的な考え方とかは、比較対象として例に挙げられるのがせいぜいで、「あなたはどう思っているか」を明確にする・深掘っていくための道具でしかない、それにそれ以上の力を持たせてはならない)

「ちゃんと」っていうのがなんだかあやふやだし子供っぽい単語なんだよな…。でも私はこの体験をするまで、「今までの人生のなかで私は一度も、ここまできちんと私の言うことを聞いてもらったことがなかった(本当に話を聞いてもらうってこういうことなんだ)」って思った。

リスニング講座を受けて思ったのは、いかに人は相手の話を聞いている時に、相手の話に対して「感想」を抱くのか、ということ。その感想をもって、相手の話を聞き続ける(この時点でもう相手の言いたいことをちゃんと聞こうという態度が薄れてしまう)し、感想は「意見」や「アドバイス」になるし。それを分かった上で「あくまでこれは自分の意見だけどね…」と配慮を持った前置きをして話始めたとして、そこからもう、私の思う『ちゃんと聞く』の感じではないんだ。だって聞き手と話し手が逆転してるやん。うん、「ずっと話し手のターンであること」もすごい重要。なんだろう、単純に、「こんなに自分のことをひたすらしゃべる時間も実はなかなかない」とも感じたけど・・・。

なんで義務教育にして欲しいかって、みんな、相手のためをおもってるんだよ。本当に、相手の力になりたくて、話を聞こうとしてる。そこには本当に思いやりとか、真摯さがある。そんな人やさしい人々に私はたくさん囲まれてきたし、その人たちの時間をたくさん分け与えてもらっていたと思う。でも!! にもかかわらず!! それが、全然、効果がなかったんだよ。悲しすぎることに。私も、私が出会ってきた心優しい人たちも、誰一人「ちゃんと話をきく」ということを知らなかった。むしろ「ちゃんと話を聞く」をしていると思っていて、私自身も「ちゃんと話を聞いてもらっている」と思っていて……なのにいっこうに改善しない悲劇。悲劇っていうか、当然の帰結ではあるんだけど。私が本当に欲していた「ちゃんと話を聞く」は与えられてなかったから。

人は、知っていることしかできないと思う。これが教育だ、と思う仕方でしか教育はできないと思うし(それは、第一に自分自身が受けた教育。第二に、本を読むとか、他の人のやり方を見てとかで、覚えていった教育。いずれにせよ、それは体験したり、見たり、聞いたりしたやり方になる。知らないやり方はできない。)自分の知っている聞き方でしか、人の話を聞けないと思う。

だからみんな、「これが『親身になって話を聞いてあげる』という行為だろう」と自分が思うやり方(それは、やってもらったことがあるか、何かしらで学んだもの)で、話を聞いている。

・・・ちょっとどんなふうに言葉を繋いでいけばいいかわからなくなってきた。

えーと。

もったいない! と思う。
だから・・・ナラティヴを知ってくれーーーー!!! お願いだからーーー!! って思う!!

大切な人の力になりたい気持ち、心からの優しさ、思いやり、善意・・・せっかくの素晴らしいそういうものが、ナラティヴ的態度が知られていない場所では、ただただ空吹かしになっている感じがするんだ。いやもちろん完全に無意味になってるとは言わないし、私も今までいろんな人に話を聞いてもらっていた時間によって救われてはいた。ある程度は。

ある程度は!!
そう、ある程度は!!!

つまり、「その程度が関の山」って! 思ってるわけです! 「これ以上はどうしようもないんだよな」って諦めてるというか。それ以上どうすることもできなくて、この苦しい中でなんとかやっていくしかないんだって。この世にはそういう方法しかないんだって。みんなそうやってなんとかやりすごしてるんだって。それが生きることだって。

ちゃうねん!!!
その先があるねん!!!!
必ず!!
見たことのない地平が!!
私は見た!!
すがすがしい空気とともに!!!
ぱぁっと視界が開ける感覚!!!

その「その先」を、ともに訪ねていくのがナラティヴですねん!!!!!

だから、「その先」はあるんだということを、その先を訪ねる方法=ナラティヴがもっともっと広く知れ渡って当たり前になって欲しい!! 掛け算の九九並みになってほしい!

嬉しかったことば

今回この記事を書こうと思ったきっかけは、友人の言葉でした。

この間、友人の話を聞いてた時、自分なりにちょっとナラティヴっぽい相槌で話を聞こうとつとめていたところ、終わってから「自分で考えてる範囲じゃ抜け出せない壁の外に連れ出してもらえた感じでスッキリしたー。」とLINEをもらったのでした。

うれしい!!!!!

これは!!! 一番、一番、嬉しいやつ!!!!!

この「壁の外に連れ出してもらえ」る感覚と、「スッキリ」感こそが、ナラティヴの力というか。効用というか。私が一番ナラティヴによって救われた部分というか。一番知って欲しい感覚。それを感じてもらえたのは、本当に本当にうれしい〜〜〜〜。そしてちょっとナラティヴにも興味を持ってもらえたので・・・! これまたうれしい。だから改めてナラティヴってなんだろなーと思いを巡らせるなかでこの記事は生成されたのでした。

いや、もう、ほんとそれなんだよなー。壁の外&スッキリ。
ナラティヴが料理だったとしたら、私はこの味を本当に日本全土に知ってもらいたくて、だから道の駅とかデパ地下とかでめっちゃ実演販売をしたいのだ。ナラティヴはさー、ながながしいLPとかでくどくど説明するより、まずは一口食べてみたほうが絶対に早いと思うんだよ。「なにこの味!? こんなスッキリする味がこの世に存在したの!?」ってなるから。(っつって私は最初にハードルを上げすぎてしまうんだよなーー。それはあんまりしたくないんだけど、でも興味はもってもらいたい。。。あと、必ずしも一口目にそれを感じるかというとそうでもないところがむずかしい。じわじわ時間差で1ヶ月後くらいに「ま、まいううぅ〜!?」ってなったりもするから・・・)

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