先日(12月8日)のカウンセリングを申し込んだ際、事前にカウンセラーさん宛にメールを送っていました。内容は、カウンセリングの前段階で、現状を切々と自問自答している長文メールです。これは私が毎回やっていることで、「おもいのたけメール」と呼んでいます。だいたいいつも数千文字になるという迷惑この上ない代物なのですが、いつも『どうぞ気の向く形で送ってください』と言ってくださるので、遠慮なく送らせていただいているかたちです。これは本当に本当にご担当頂いている方ご本人の多大なるご厚意と寛大なるお心遣いによるもので、正直、業務外サービスをご対応いただいているなあ……と思っているのですが、「読んでいただかなくてもいいので」という言葉を隠れ蓑に、いつも送らせていただいています。(そして結局いつも全部読んでくださっています……。)本当に本当にありがたい限りです。
ちなみに私には、こんな感じの「おもいのたけメール」を受け取ってくださる方があと2人くらいいて、(もうちょっとライトなやつon LINEな受け取り手さんもいる)それがものすご~~く私の精神安定剤になっています。本当にありがたい存在です。複数いるというのもポイントかなあと思います。頼れる先が複数ある・分散してるっていうのはいいこと。リスクヘッヂ的な。宛先ごとにちがった言語とか世界観で語れることも良いのです。あと、悩んでいる場所からは離れたところにいる方、というのもめちゃめちゃよかったです。
というのは、特に去年~今年ですが、私は主に配信活動まわりのことを中心にものすごく悩んでいたわけですが、そういう世界とは全然無縁の方に話すと、その界隈(その渦中)から500kmくらい離れて、客観的に何が起こっているかを一緒に見てもらえる感じがあります。ちょっと冷静になって。クールダウンして。問題に頭を悩ませていてどうしようもないなら、まず問題が起こっている場所から500kmくらい距離をとるの大事と思います。まずは退避です。
これと似たようなことを、旅先の人に「配信活動してるんですけど色々悩んでて…」って話していたときにも感じてました。その集団の中では当たり前とされてることなどが、ところ変われば全然そうではないってことが再認識できるし、なによりそれが肌で感じられる。これって、私がワーキングホリデーでニュージーランドに行ったときの感じとも同じなんですよね。「私を息苦しく(生き苦しく)させていたアレコレって、日本ローカルのものだったんだ! 別の場所に行けば、アレコレがそもそも存在しない、だと…!?」っていう衝撃。この感じを人生で何度か体感として経験して知ってるのって、私のなかで大きいなことだなと思います。おもえば私は追い詰められてきたら物理的に退避してきたなって思います、人生で何度も。それが旅でもあるように思う。
まあつまりは、自分が普段身を置いている場所にどんな常識がまかり通ってるかをたまに俯瞰するの大事ですよね。ディスコースってやつですね。
さて、本題、というか、もともとこれを書こうと思っていたこと。最初に書いていた「おもいのたけメール」、その一部をここに転記しておこうと思います。(一部内容に修正を加えています)
今回カウンセリングを申し込んだのは「この悩みが自分の中に居座り続けて、定期的に思考の沼にはまっては、同じことを繰り返し考えてしまう。これはもうナラティヴでとことん言語化し尽くすしかない!」と思ったからです。
自分のここ2年間くらいの経験上、変に自分を納得させて未消化でいると、(「もう考えてもしょうがないよ」「悩んだってどうにもできないよ」「割り切って進むしかないよ」等、自分をいさめながら進んでしまうと)心の隅に追いやった悶々がふとした隙を狙って(それはたいていちょっと疲れたり気持ちが弱ったとき)ちょっかいをかけてきます。だから、誰に気兼ねもしない率直な本音・おもいのたけを書いたり話したりして洗いざらいきちんと言葉に落とし尽くすのがとても大事で、それをやり尽くせるとすっかり心の中がクリーンになって、思い悩んでたことときれいさっぱりお別れができて、びっくりするくらい全く気にならなくなるものだと、体感として知っています。それを一番感じるのが、2020年のカウンセリングで出た「私の10年間を返してよ」という言葉です。今年の4月にこのスクリプトを改めて読んだときに「私、そういえばこんなこと、言ってた! もうす~~っかり忘れてたぁ!」と、驚きと、面白おかしく感じるような気持ちを感じました。あのときこの言葉をお産のように排出できたことで、2020年、2021年、2022年をこの“恨み”のような気持ちからはすっかり解放されて(すっかり忘れて)あっけらかんと、新たな活動に取り組めていたのだな~と思います。その恨みのような気持ちを収納していたスペースが空いて、風通しが良くなって、新しいもの(これからの自分に必要なもの)を収納していけたということだと思っています。
前回のカウンセリング以降、2カ月半くらいの間、かなり何度も、かなりの重労働として、自分の中で、その悩みについてのおもいのたけをノートやキーボードに叩きつけてきました。(結構な分量だと思います。)そのなかである程度気づくことがあったり消化したりしてきたつもりなのですが、いまだにやはり気が付けば「また結局同じところに戻ってきてる…(同じことを言ってる…)」となってしまっていて、これはもう一人で対処しきれる範疇を超えてるな、セルフナラティヴでは掘り起こせない、見つけ出せない、こびりついた、隠された汚れのようなものを、私以外の誰かの手を借りながら一緒に探索してもらいたいと思いました。「私の10年間を返してよ」の言葉に匹敵する、今わたしの体のどこかに居座って、私のやる気や行動力を低下させている何らかの言葉を掘り当てることができたらいいなと思いますが、見つからなくても、共同探索をしていただけること自体がきっと沼から一歩出たところに立てることにつながるのではないかと思っています。
2022年12月4日のおもいのたけメール より
読み返してみたら、われながらけっこう普遍的な大切なこと書いてるやん!とおもった(自画自賛)ので、ブログにも載せておこうと思いました。もう全部自分が今まで生きてきて経験上そのとおりだなと思うこと、つまりは過去の自分が全くできていなかったこと😱で、
- 変に自分を納得させるな。正直な気持ちを全部出しきれ。
- 出しきると、それはキレイサッパリ自分の中から消え去る。
- 自分一人で無理なことは他人を頼れ、遠慮せずに!
って感じですよね。ほんとにね。正直な気持ちっていうのがポイントですよ、配点80くらい大事。みんな大人だし優しいし常識人だし優等生だから「いい子の考え方」で自分を諫めるんだけど、それは日常を送る上ではとても大事な「社会性」だったり「真っ当さ」だったり「建設的な思考」なんだけど、こと感情整理においてはそれはちょっと邪魔になってくるので、15分ほどお外に散歩いってもらっておくのが良いですね。
ふたつめの「キレイサッパリ」は、マジ自分でびっくりするほど、なくなるですよ! これが「無念を晴らして成仏ってやつか!」って思います。思念の成仏です。なんだか、この間紹介した『ゴダイゴダイゴ』のシーンともつながる感じかある話ですね。
最後のやつは、私の大好きな『3月のライオン』から林田先生にご登場いただき、スパーンと言い放っていただきましょう。(ちなみにこれの実写映画では、少年役=神木隆之介くん、先生役=高橋一生さんです。最高ですね。)
「今日みたいにさ 一人ではどーにもならん事でもさ 誰かと一緒にがんばればクリアできる問題ってけっこうあるんだ そうやって力を借りたら 次は相手が困ってる時 お前が力をかしてやればいい 世界ってそうやってまわってるんだ」
「あのな 大事なことだぞ? いいか? 1人じゃどうにもならなくなったら 誰かに頼れ -―でないと実は 誰も お前にも 頼れないんだ」
羽海野チカ『3月のライオン』3巻 Chapter.32より
モノローグの方は「遠慮することにばっかり気をつけて実は彼女たちに頼られたことって一回だって(なかった)」とつづきます。私のまわりには“遠慮することばっかりに気をつける人”がほんとうに多すぎると思います。冒頭の私くらい遠慮しない人にみんななっていきましょうよ!って感じです。みんなもうちょっとふてぶてしいくらいでちょうどいいのよ!
ちなみにこれ、2009年発売の3巻なのですが、そこから時が巡り、2016年発売の12巻(Chapter.126)では、「ちょっと自分たちだけでは大変だな」と思ったときにごく自然に人の手を借りれるようになった主人公が! 描かれるのですよ! 最高です。物語内時間も現実時間も経過するなか、ゆっくりゆっくりと、変わっていく。私、3月のライオンは1巻からコミック本をリアルタイムで買い続けているので、なんだか零くん(主人公)といっしょに、成長してきたなーーっていう感じがすごくあるんです。1巻を読んでたころは、まさに1巻当時の零くんみたいなメンタルと様相でだったのが、そこからともに年月を重ねていくなかで、私も作中の零くんみたく、精神的に学んでいったり、人と交わっていくことをするようになったのですなー-。だからもう、零くんは、戦友みたいなかんじです。人生の。
追記(ウタの『私は最強』について)
記事読み返しててふと思い出したので。退避とちょっとつながる話。
今日、ウタの『私は最強』の歌詞を改めて読んでいて(先週ののど自慢で歌っている方がいたのがきっかけ)この歌は、深読みしなければ素直な応援歌として受け取れる。めちゃめちゃさわやかなメロディで、エネルギーがわいてくる感じある。もちろんそれでいい。いいのです。
が! 作中を踏まえて考えると、これは、もうこれ以上ひとりでがんばっちゃアカンひとが、どう考えてももう大丈夫じゃないひとが、『大丈夫よ、私は最強』って言い聞かせながらギリギリのところで『私を奮い立たせ』てる歌だからー……あかん、アンタはもう動いたらアカンねん、もう寝て……休んで……ちゃんと心に抱えるものを誰かに打ち明けて……。ていうやつなので。
『わかっているけど 引くに引けなくてさ』
→いやいや、引いていいから! 人はいついかなるときも引くという選択肢はかならず持ってるし取っていいんだから! 引くに引けないって思ってしまってるだけだから! 絶対にそんなことできないと思ってるかもしれないけど、限りなくそれに近い状況ももちろんあるだろうけど、でも、引くことを選ぶことは、絶対に、していいんだから!!
『無理はちょっとしてでも 花に水はあげたいわ』
→いやいや、あげなくていいから!! アナタ花とか気にしてる場合じゃないから! 花より先に自分に水あげて! 自分に休息と許しをあげて! 花はそう簡単に枯れないし、だれかに水やり頼めばいいから! もうお願いだからベッドに戻って~~!!
『期待には応えるの』
→いやいや、応えなくて、いいからぁ……!! その気持ち、心意気はほんとうに尊いけど、それよりなによりアナタの! 身体が! 健康が! 大事なんだ~~~!!! わかってくれー-。自分の健康を損ねてまで誰かのためになろうとしなくていいんだあ……。まずは自分、そのあとみんな。自分をほんとうにきちんと大切にできないひとに、他人をほんとうにきちんと大切には、できないかもしれないからー……。
っていうね、もう歌詞の後半に対してツッコミの嵐になってしまうのだよね。ウタに対してでもあるし、これはとてもとても(たぶん制作者は意図的にそのメタファーにしてると思うけど)VTuber/Youtuber/配信者/アイドルetcの闇を描いてると感じるので……。だから私はどれだけ白い目で見られようと9割方の人に理解されなかろうと「 が ん ば ら な い 」というスタンスを強く提示していきたい。
でも、むずかしいよね。『無理はちょっとしてでも』と自分を鼓舞しながら、何かに懸命に取り組んでいくことがほんとうに必要な時もある。それがほんとうに正しいこともある。(なにをもって正しさとするんだって話ですが。まあ、そのまま突き進んだ先でブッ倒れるような道、偽りの笑顔を浮かべるような道を、私は正しいとは言いたくない……)とにかく見極めがむずかしすぎるんだよね。自己欺瞞してる場合もあるから、正しく見定められないし。まあ……
- 唐突に「今あなた幸せ?」って聞かれて、心からのYesが実感こもって言える?
- すべての仮面を取り払った一番内側の自分はちゃんと笑ってる?(実は泣いてない?)
- それは、あなたの魂に誓って真にやりたいこと? あなたは何を目的にそれをやってるの?
みたいなところを問いかけてみることですかねえ……。
で、何が言いたかったかというと、『魔法陣グルグル(1994年版)』の最終回、すごくない!? ってこと。王や国民の期待を背負った身でありながら、魔王を倒す直前まで来たところで「やっぱりやーめた!」ですよ! やばい。ニケとククリこそが最強だ。そのくらいライトにギャグテイストに生きていこうよ。