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初めてのナラティヴ・セラピーの満足度は、それほど高くなかった話

私が初めてナラティヴ・セラピーのカウンセリングを受けたのは、2020年1月23日のことでした。正直に言うと、直後の感想は「うーん…なんかイマイチ…?」というものでした。なぜそう感じたのかを振り返ってみたいと思います。

この記事で書くのは、あくまでも「私にとって」のあの初回カウンセリングの体験がどういうものだったかについてです。カウンセリング全般やナラティヴ・セラピー全般に向けての考察ではありません。

また、最初に強調しておきたいことは、初回直後の満足度は低かったものの、その後じわじわとその良さを感じていき、1ヶ月半後には「ナラティヴって、すごいかも!」と、感想が一気に覆えったということです。
実際、「是非ともナラティヴ・セラピーを継続していきたい!」と2回目、3回目……と立て続けに予約を入れるに至りました。(もちろん、それらのカウンセリング後の感想は、「すごくよかった!」です。)

目次

受ける前の期待のようなもの

ナラティヴ・セラピーを受けるにあたり、事前に1冊の本を読んでいました。その本を読みながら、『人が問題なのではない。問題が問題なのだ。』という部分に、大きな驚きを感じるとともに、強い期待を寄せていたと思います。

その当時私は、鬱の診断を受けて会社を辞めることになって……と精神が奈落の底に落ち続けるような日々を送っていました。その状況に至るまでの出来事や、その時思い悩んでいたことは色々ありましたが(というより、頭のなかはもう破茶滅茶で、整理もできていませんでしたが)基本的に全て「全部私が悪い。こんな私だからいけないんだ。」という思考に帰結していました。

「どう考えたって『自分が悪い』としか思えない。そんな私を、一体全体ナラティヴはどのようにしてくれるのだろう」と。ちょっと意地が悪い考えかもしれませんが、「やれるもんならやってみろよ!」というような気持ちもあったかもしれません。

(まあこれは、ツンデレみたいなものといいますか、「この絶望から救ってほしい」という強すぎる気持ちの裏返しみたいなものです。その場所から抜け出すのは不可能と思っていて、なのにそこに信じられないような発想を持った人が現れて、この人の手を取ればもしかしたら奇跡が起こるかもしれないという期待もありつつ、その期待が外れてしまうことを強く恐れているというか……)(『希望は絶望を引き立てる最高の香辛料』というセリフがとあるアニメにありましてね。「やっぱりダメなんじゃん」と思いたくないから、期待を持ちたくはないのです。)

つまりは、テーマとして話したいと思っていたことは、直前の会社での失敗(自分のコミュニケーションの下手さ)についてや、それを自分はどう受け止めていけばいいのか、自分の何が悪くて、今後どうしたら改善されるのか。とりあえず今ずっぽりはまり込んでるこのネガティブマインドからどう抜け出していけるのか。などでした。

(今だから書けることで、当時こんなふうに言葉にして出すことは不可能でした。とにかく混乱していた。「なにがなんだかもうわからないけど、とにかく自分はどうしようもなくダメで、でもなんとかしていかなきゃいけない。でもどうしたらいいか全然わからない」くらいのものです。)

初回カウンセリングで話したこと

時間は一時間半でした。別の記事でまた詳しく振り返ってみたいと思いますが、おおまかに話したことは、ざっくり以下のようなものでした。

  • 会社でうまくできなかったこと(自分のコミュニケーションの取り方の下手さについて)
  • 大学生から社会人1〜2年目に考えていたこと
  • ニュージーランドでの経験について

終わった後に抱いた感想

終わった後は、どっと疲れていました。話すってだけでも、ものすごいエネルギーを使うんですよね。この頃はもう虚弱体質とでもいうのか、体力・気力が地に落ちているとき=普段なんてことない日常行為をちょこっとするのにも一苦労、成し遂げた後は疲労困憊という時期でしたので、余計に。(全然関係ないですが、帰りがけに偶然見つけたChou Chouシュシュ)」という雑貨屋さんが隠れ屋風の素敵な雰囲気で癒されました)

沢山おしゃべりしたなあ〜という感覚を持ちつつ、「うーん…なんかイマイチ…?」と感じながら帰路についていたわけですが、もう少しどんなことを思っていたのか、具体的に思い出してみると、以下のようなものがありました。

「なんだか全然違う話をたくさん話したなあ」

先ほど書いていたように、その時の一番なんとかしたい、モヤモヤを解消したいポイントというのは、「直前の会社での失敗(自分のコミュニケーションの下手さ)について」でした。(その時点で自分自身それをはっきり認識していたわけでもなく、それゆえ主張もできなかったのですが)

最初はそれについて話していたものの、途中から過去の話につながり、さらにはニュージーランドでのワーキングホリデーの経験にまで至りました。それは自分にとって大切で、楽しく、大事なものだった。……というのが再認識はできたのですが、「それは目下の悩みには何の関係のないことだ。何も解決に寄与しない。」と感じていました。

つまりは、あまり重要でない話に多くの時間を費やしたように感じられていました。

「やっぱり私は話すのが下手だ。つらい。」

「人と話すこと」「自分のコミュニケーション不全」に苦しみを感じているのに、カウンセリングを受けるために、それを行わなければならない(その苦しみの過程の再来を甘受せねばならない)という……。はあぁ……なんとかならんもんですかね……思い出すだけで息がつまる。うごごごご。

なにか、手助けをしてほしい。だから、目の前の人に、今私はどういう状況にいるのかを、説明しなければいけない。(それが、わからない、っていうか、うまく整理整頓できてないんだよーー。うえーん。)でも、話さなければ。そうしないと始まらない。まず私がそれをしないことには相手もどうしようもない。

でも、話せば話すほどに、自分の語彙の拙さ、頭の中で整序立てて考える思考力の低さ、相手にわかりやすい形で言葉を置いていくーーその能力の低さ、を思い知っていく。露呈する。ああ、やっぱりうまくできない。もうしわけない。こんなだから、そりゃあ周りに誤解を生むようなことしちゃうよね。うまくコミュニケーション取れないわけだよね……。

もっと、私のなかで渦巻いている思いをもっとうまく表現できる言葉や伝え方があるはず。……でも、うまく言葉にできてない時点で、結局は自分でもちゃんと理解できてないってことなのかな。もっと考えてるはずというのは幻想で、結局私は大したこと考えられてなくて、ほんとになんか、ばかなんだなぁ……。

などなど、反省ばかりが募り、その過程でずぶずぶと闇の思考に沈んでいっておりました。

「自分のことだけ話すだけだなぁ。それだと、気づきとか得られない気がする。」

その当時、私は「新たな視点・考え方・手法などを『知る』こと、それによる『気づき』によって、悩みの解消、心の癒しが起こる」と考えていました。それまでの経験上、常にそうだったからです。自分の外側から、未知の(自分の持っていない)何かがもたらされ、それが自分の中に何らかの変化を起こしてくれるから、気づくことができる。

例えば私は今まで、病んだり行き詰まったりした時は、本を読んだり、自己啓発セミナーにいったり、マンツーマンコンサルティングを受けたりしてきました。どれも、なにかしら世の中に先行して存在している考え方・物の捉え方を、新たに知り(教えてもらい)、そのやり方で自分を捉え直すことで、改善・回復ができたというものでした。

だから、カウンセリングにも『気づき』を求めていたし、その気づきは、自分の知らない考え方・物の捉え方・世界の見方を『教えてもらう(シェアしてもらう)』ことによって(しか)起こり得ない、と思っていました。

だから、「自分のことを話すだけ」の時間に、『発見はない』と感じられていました。

今、改めて振り返って思うこと

上記3つの感想のなかで、3つ目が一番重要に思います。過去形で書いていることからもわかるように、今は私はこのように考えていません。むしろ「自分のことを話すだけ」というものの貴重さ、大切さ、素晴らしさ、類い稀なさ……をひしひしと感じています。

もちろん、上記に書いたような「未知なる何かのシェア」が大きな気づきとなって、悩みが解消したり、鬱が改善することもあると思います。感覚値ですが、8割くらいはそれでうまくいくような気がします。しかし、私はこのたび、そのような「外からもたらされるもの」が猛毒にもなり得ることを知りました。きっとそれは、諸刃の剣なのです。良薬になることがほとんどだけど、そうじゃない時もある。それはあまりに怖いことです。

「答えは自分の中にある」なんて、使い古されたセリフですが、本当にその通りなんだろうと今改めて実感しています。ナラティヴ・セラピーは、それを一緒に探すことを手伝ってくれる。根気よく。絶対にそれがあると、本人よりも強く信じて。……なんか、自分の中に答えが、希望が、あるなんて、すごいことですね。外に探しに行かなくても、必死に求めなくても、絶対に自分の中にあるんですよ? ちょっとすごくないですか。泣けてくる。うるり。

えーとつまりはそんなわけで、カウンセリングを受けてから時間を置くなかで

  • 「新たな考えを外から教わる」ことがなくても、気づきはある!
  • 自分の中を探っていくことによって(こそ)、気づきがある!

と、自分の中の考え方が変わったことによって、「ナラティヴすごい!」と一気に感想がひっくりかえったのです。そして、その上であたらめて1回目に話した内容を眺めてみると、とってもとっても大切なことをたくさんたくさん話していたなあ……と感じるわけです。

そのときはわからない、気づけないのだけど、時間をおいて、熟成されることで、見えてくるものがあるのは間違いないと思います。

さて、こんな風に書いていると、やはりどうしても「一般的な(ナラティヴを用いない?)カウンセリング」と「ナラティヴ・カウンセリング」の違いが気になってきてしまう。カウンセリングも外からはもたらさないものなんですかね? もたらしかたが違う? あ、でも、そういう話じゃなくて、問題が問題っていうそういう姿勢こそがっていう……?

ナラティヴへの興味は尽きません。
今日はこんなところで。

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