MENU

ナラティヴの初回カウンセリング直後に感じた、良かったこと

初めて受けたナラティヴ・セラピーのカウンセリング。終わった直後の時点では、全体としての満足度はそこまで高くありませんでした。(これについては、別の記事で詳しく書いています。)

とはいえ、良かったことが一つも感じられなかったわけではなく、終わった直後にも「良かったな」「面白かったな」と、すぐに思える部分がありました。

目次

アウトサイダーウィットネスが良かった

アウトサイダーウィットネスに関して

私がカウンセリングを受けた「NPACC(エヌパック)」というところでは、アウトサイダーウィットネス&リフレクティングチーム(OW&Rチーム)というものを取り入れていました。これについて、私自身まだしっかりと理解しているわけではないので、NPACCが行なっている説明の一部をそのまま引用したいと思います。

アウトサイダーウィットネスは、文字通り「外部の証人」という意味です。そのカウンセリングの展開は、非常にシンプルです。最初、カウンセラーと相談に来た人との間で通常のカウンセリングが行われ、アウトサイダーウィットネスは少し離れてその会話に耳を傾けています。そして、区切りのいいタイミングに来たところで、アウトサイダーウィットネスが会話に参加します。彼らは、カウンセラーに質問される形で、そこまでの会話や相談者の物語で、自分の注意を引いた表現や、そこから得たイメージ、そして、それがなぜ自分の琴線に触れたのかや、自分の人生にどんな影響を与えたのかを言葉にしていきます。ちなみにこの時は、相談に来た本人は、直接会話には加わらず、一歩下がってその語り直しをゆっくりと聞くことができます。

引用元:https://npacc.jp/approach/

私がカウンセリングを受けたときにも、ここで説明されてある通りのことが行われました。その日その場所にいたのは、カウンセラーさん、私、OW&Rチームの方で、全部で3人でした。実際の流れは、ざっくりと

  • 70分:1対1のカウンセリング(カウンセラー、私)
  • 10分:アウトサイダーウィットネス(カウンセラー、OW&Rチームの方)
  • 10分:1対1のカウンセリング(カウンセラー、私)

という感じでした。(途中にトイレ休憩なども含みます)

アウトサイダーウィットネスの何が良かったか

「今までにない体験をしたなあ」というのが、率直な感想です。

私が話したことについて、2人の人たちが話をしてくれる。それを少し離れた位置からぼんやり眺めているーーというのは、なんだかとても、言い様のない不可思議な感覚でした。私についてのうわさ話の現場を、透明人間になってこっそり覗き見しているような気がしました。

もちろん、これはうわさ話とは違います。そこでの会話に私を評価するような内容は含まれません。上記の引用にあるとおり、「そこまでの会話や相談者の物語で、自分の注意を引いた表現や、そこから得たイメージ、そして、それがなぜ自分の琴線に触れたのかや、自分の人生にどんな影響を与えたのか」について語ってくれています。私には、これがとても心地よかった。猫が喉をくすぐられるような、面映ゆいような、しかしそこに確かな愛情やいたわりを感じるような、そんな時間でした。

なぜなら、「私の語ったその内容を、他者が大切に受け取ってくれていて、その上さらにそこから考えを深めていってくれている」という様子、その瞬間を、すぐ間近に目撃することになるのです。そういった場は、他にはなかなか無いと思いますし、あの時の私にとっては特にヒーリング効果をもたらしました。

というのも、その当時……というのか、その日に至るまでの半年くらい間、とにかく私は無力感に苛まれていました。私の考えることなんて、取るに足らないこと。間違いだらけ。どうしたって否定されるもの。何事も成すこともなく。むしろ場を混乱させるだけの害悪。だから、必要ないもの。いいや、それこそ、生み出してはならないものーー。

(……今、思い出しながらこれを書いていて、うわーーそんなこと思っていて、そんな状況だったのかーーそりゃ厳しいわーーと感じておりますが。)(ううむ、もうこのレベルの状況になってしまったら、そりゃもう退避の一択だよな。上司とか同僚に相談するフェーズはすでに超えてて、ちゃんとメンタルケアの専門家に診てもらう必要がある段階。肉体で例えたら、結構流血がダラダラと止まらなくなってる段階……? 心って本当に見えないから難しいよね。流血あればわかりやすいのに。自分でも少なくとも、あ、これは対処が必要なやつだ。ってわかるじゃん。心のダメージも可視化されるように人類進化しないもんですかねぇ…)

と、そんな状態の最中にいたため、この上ないほどの嬉しさというか、癒しがあったのです……。あー、私(のことば)はいらないものじゃない。少なくともこの場では、尊重されている。この人は、私の言葉から、何かを感じ取ってくれている。私の言葉は、誰かに、何がしかの影響(ってほど大きくなくてもよくて……響き、振動、ほんのささやかな揺らぎ)をもたらすことができる。私の言葉で、水面に静かな波紋が生まれる。私の言葉は、世界にちゃんと受け入れられているーー。

(ことば=私、なのかしら・・?)

ということで、とんでもなく栄養価の高いサプリメントを、実はこっそり、心に頂いておりました。また、これは3回目のカウンセリングで感じたことですが、「ただ語ったこと」が、そのように他者に影響をもたらすのだ、という部分が同時に重要なポイントだと感じています。

すごく考え抜いて、我ながらこれは良い話だぞ! と思ってるとか、これは結構頑張って時間をかけてまとめた論文だぞ! とか、そういう内容の話なら、他者にそれなりの影響を及ぼすのも、まあわかります。さもありなん、なので、妥当だよな、ってことで驚きもないのですが。

ただべらべらと思いつくままに喋ったこと。しかもそれは、苦しかったりした体験とか、自分では良いものだと思っていない事柄についてだったりするので、そんな、そこらへんに転がってる泥だらけの石ころ、きちんと磨かれてない、なんでもないものが、そんなふうなエネルギーを秘めていたのか、という驚きがあります。

そんな風に、アウトサイダーウィットネスという行為そのものが既に大きな癒しでしたが、もちろん「私にはマイナスにしか思えないこの事柄が、他人の目にはそんなふう(たとえば、とても目を見張るような強いパワーをもっているもの)に見えたりするのか〜」という嬉しい驚きによる癒しや気づきもあります。しかし、初回の私にとってはそれは二の次のことで、とにかく「私の言葉は世界に受け入れられているし、他者になんらかの影響をもたらすことができるものなのだ」と思えることが、なによりのことでした。

ひとつの感じたこと

もうひとつは、約1時間半のおしゃべりの中に、大きなコントラストが感じられたことでした。ある時はどんよりとした曇り空であったのに、ある時は雲ひとつない晴天のようだったのです。

もう少しイメージを膨らませると、最初は19世紀の末期のロンドン、霧のように立ち込めるスモッグはいかにも肺に悪そうで、路地裏からはいつ切り裂きジャックが飛び出してくるかわからない。そんな俯きがちで、常にどこか身の危険を感じなからきゅっと身を縮こませるような、灰色の世界。
しかし、ある時から一瞬にして場面転換。いわば映画『サウンド・オブ・ミュージック』の始まりの景色で、青い空と白い雲、どこまでも続く草原と偉大なる山々。大いなる自然のど真ん中で、両手を大きく広げくるくると回りながら、誰に憚ることもなく、思いの限り、高らかに歌い上げる。そんな清々しい世界。

前者が、会社での苦しかった体験を語った時で、後者がニュージーランドでの経験を話した時のことです。

それがどういうことなのか、その時はわかりませんでした。だた、そのくらいの大きなコントラストの差が、自分の人生の中に存在しているのだ、ということは強く印象に残りました。(実際のところ「だからなんなの。この灰色の世界で生き抜いていかないといけないんだ。あの青空なんてただの現実逃避、モラトリアムだ」くらいに思っていましたが)

この印象は、その後ゆっくりと自分のなかで咀嚼されることになります。現時点でもまだ、だからどうだという結論は出ていません。でも、後者のことをあの時のように、ただ「モラトリアムだ、現実逃避だ」と切り捨てるようには、感じていません。

その時はわからなくても、何の意味もなさないものとすら感じられても、少なくともそのとき感じたり見えたりした「何か」。それが、その日のカウンセリングを通じて、ひとつ、自分の中に生まれた。それは、本人すらも気づけないくらいの些細なことなのですが、それこそが、ひとつのとっかかりになるに違いないのです。それが得られたことが、とても大事なことです。

目次