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私がナラティブを「すごいものだ」と認識したきっかけ

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最初の印象はイマイチだった。

私が初めてナラティヴ・セラピーのカウンセリングを受けたのは、2020年1月23日のことでした。正直に言うと、直後の感想は「うーん…なんかイマイチ…?」というものでした。

なので、一旦、通うことは控えました。

なぜなら、当面の私の緊急課題として、「鬱をなんとかしなければ」というものがあったからです。会社も辞めてしまっているので、収入はストップしています。家族からのサポートがあるとはいえ、お金が湯水のように溢れかえっているわけではありません。限られた『うつ改善対策』用のお金は、大切に、より効果があるであろうものに優先的に回さなくてはなりません。

ナラティヴというものに、とても興味はある。
しかし、興味・関心のための投資なんて、今はできる状況じゃない。

ということで、その時期は、心よりは身体をまず先に整えていくような施策(お医者さんに診てもらい、必要な栄養素がぎゅっと詰まった高配合サプリメントを処方してもらう等)に優先的にお金をまわしていました。

ある日、心ある心無い言葉が、私の心を襲った

しかしそんな日々を送っていたある日、私の心に大激震を走らせるような、神経を恐ろしく逆なでするような(それはもう、黒板をひっかくかのような不快さで!)大事件が起こりました。

それは、とある鑑定士さんに性格診断のようなことをしてもらった日のことです。

その日は、もともと体調があまりよくなく、お化粧もできず、重い体を引きずるようにして電車に転がり込み、なんとかかんとか、新宿のカフェにたどり着いた……という背景がありました。心の余裕ゼロ。初対面の方に対する礼儀だとか気遣いだとか愛想だとか、そういうものに回せるエネルギーは微塵も残っていませんでした。

そんな中で、その方が用いる鑑定手法にのっとって、私の性格や特性を出してもらいました。その結果は、そんなに目新しいこともなく、まあやっぱりそういう感じになるよね、という内容でした。もともと性格診断が好きで、エゴグラム、ストレングスファインダーなど色々とやっていたので、だいたい予想はついていたのです。


こんな感じの結果になりましたけど、いかがですか? という鑑定士さんの問いかけに、その時は、つい、言ってしまったのです。

「ええ、まさにその通りで、とても当たってると思います。
 でも私は、そんなふうである私が、嫌いなんです

と。

それに対して、鑑定士さんは言いました。

「自分のことが嫌いだなんて、そんなことを言ってはだめよ」

と。

その時の私の心境

その言葉を聞いて感じていたこと

「自分のことが嫌い」だなんて、思うのはよくない。
ーーなんてことは、重々承知しています。そう思わないでいられるなら、私だって、思わないでいたい。あっけらかんと、自分のことが好き、って、言えるようになりたい。そう思って、一生懸命、10年近い年月をかけて、やってきた。自分に自信を持てるように、いろんな考えを吸収したり、いろんなところへ行ったり、挑戦をしてきた。そうしてやっと、ようやく、自分をちょっとは誇れるような場所に、途方もない年月がかかってしまったけど、そんな歳月も含めて、なかなかやるじゃんって、認めてあげられるようなところまで、きたつもり、来たはずだったんだ。なのに、やっぱり、ダメなところはダメなまま、そのダメさのせいで人様に迷惑をまたかけてしまって、会社も辞めることになって、やっぱり、やっぱりどうしても、私は私のことが嫌いだ。私のこういうところが本当にだめだ。

その時を振り返って思うこと

そのくらいの振り絞るような切実さをもって、吐露した言葉でした。なにも、軽い気持ちで、今突然、この時初めてポロっと出た言葉なんかじゃない。あなたにわざわざ言われなくたって、懇々とお説教のようなことをされなくったって、「自分のことが嫌い」なんて、思ってしまう状態が好ましくないことなんて、私が一番わかっている。わかっている。わかっていてなお、言わないことにはどうしようもない精神状態が、その時にはあったのです。

その鑑定士さんを責めるつもりはありません。私自身の狭量さが原因でもあります。心のどこかで、困らせてやろうという気持ちもあったかもしれない。あの言葉は、鑑定士さんのやさしさだということも理解しています。私のことを思うからこそ、ご本人の意見を伝えてくれたのだと。それにそもそも鑑定士さんは、あくまでも「鑑定結果を伝えること」がお仕事であって、心の専門家ではない。だから、こんな精神状況の私を慮ってよとか、そんなところまでは求めません。

その時の心の叫び

その当時、自分の日記に書いていた文章を載せておきたいと思います。内容としては、上記に書いたものと同じ(勢い任せで書いている分、もっとぐちゃぐちゃ)です。なぜわざわざ載せるかと言うと、私自身、その時の生の気持ちを忘れたくないからです。

きっと、元気になればなるほど、心身ともに健全・健康になっていけばいくほど、あの時の自分とは離れていってしまいます。その状態で、友人や同僚、もしかしたら自分の子供の相談に乗ることもあるでしょう。その時、相手の心のうちには、想像のおよばないほどのさまざまな思いが隠されているということを、きちんと心に留めておきたいのです。

変換もそこそこに書き殴っていたそのままを載せておきます。(途中に出てくる「ばーろー」というのは、『名探偵コナン』の工藤新一がよく言ってる「バーロー」=「ばかやろー」のことです。笑)

自分のことすきになってあげなきゃだめよ。じぶんのことを大事にしてあげられるのは他の人はできないんだから。とか。そういうこと。なんか、いいこと言ってるつもりなんだろうなーーっておもいながら平然ときいてた。いや、わたしのなにをしってるの??ていう。ここ2〜3日にふっと軽い気持ちでそんなふうに思ったわけじゃない。そんなことは100もしょうちだ。だからこそ、がんばって、ここまできて、やっぱりだめだったのかっていうか、もう2回目の挫折な訳でそれはちょっと、その絶望って、その、この言葉が出るっていうのは私の中でどれほどの悲愴感なのか、わかってないでしょ。もうそうおもうきりょくもねーんだばーろーっていう。そんな軽い気持ちじゃないんだと。なんかそういう怒りだった。まあ、それなら、そもそも「そんな自分きらいです」っていわなければよかったんだけど。攻撃の言葉を言い放ちたかったんだろうね・・・とか、なんかこういうこまったちゃんにあなたはどう対処するの?みたいな・・・もうしわけないことをしたわ。

2020年3月31日の日記より

そして徐々にナラティブの良さに思い至っていく

そんな出来事もありながら、日々、いろいろと思いを巡らせつつ、自分のなかを整理していました。上記に書いた出来事は大きなことでしたが、その他にも、ちょいちょいモヤモヤと感じることがありました。

相談する。気づけば相手の話を聞いている。

相談にのってもらう。それはとてもありがたいことです。「私はこんな風に考えたりするよ」「こんな風にやってた人がいたよ」と、情報やアドバイスをもらえます。その過程で得る気づきが特効薬となって、自分を大きく引き上げてくれることもあります。アロマテラピーのように癒しになることもあります。

そうやって、なにか自分の中に、小さくとも、良い変化とか、蠢きが生まれるのなら、良いのです。でも、そうならないこともある。何気ない一言が劇薬となって、発作を引き起こされてしまうこともある。それは先のエピソードで書いた通り。

そこまでのことはなくても。気がついたら、相手の話を聞いているだけになっているーーそんな自分に気づくことがありました。相手は、私のことを思って、その話をしてくれている。きっと私に良い効果をもたらすだろうと(相手がそう信じている事柄を)伝えてくれる。押し付けてくるわけでもない。『FYI=For your information(ご参考までに)』というスタンスで、伝えてくれる。

でも、……あれ? なんか、私、相手の話を聞いているだけになっちゃってるなあ。

(しかも、この話に限って言えば、あんまり、今の私には響かないというか、うーん、あんまり入ってこないと言うか……)

でも、私のために話してくれてるんだもんな。

ニコニコ。うんうん。そうなんだ。へぇー、すごい。ありがとう。

(あれ。あれれ…??)

ナラティブ。自分のことを語り続ける。

そういった流れの中で「あれ? もしかしてナラティブって、すごいんじゃ……?」と思い至った瞬間がありました。自分の内側の探求だけに全時間&全労力が費やされる空間。そこでこそ、本当の「気づき」と「癒し」が、もたらされるのではなかろうか。

回復というのは、どうしたって自分の中から生まれ出ずるものでなければ、ほんもののつよさは持ち得ないのではなかろうか。

自分の話をするだけで何ももたらされないと思っていたけれど、自分の話をするだけ、それこそが、とても大切にされるべき時間なんだ。それこそが、自分のためだけに作られた世界でたったひとつのおくすりを調合していく過程他の何よりも、自分に効く特効薬。

どんな外側の価値観に是正や提案をされることもなく、ただただ自分の話だけをしていい時間。そのような場の貴重さ。しかもそれが、BGMのように聞き流されるわけではなく、身を乗り出して、介入はしてこないんだけど、こんなにも能動的に興味を持って話し相手になってくれる、合いの手を入れてくれる?人が、いてくれる。

かぎりなくなにもしないでいて、でもそれは決してなにもしてないわけではなく、むしろとっても精緻な態度というものであって、ときに絶妙なタイミングで、びっくりするような、思いがけないボールが投げかけられたりもする。

何がナラティブ特有のもの?

ここまで書いてふと、私は『ナラティブでない、専門家によるカウンセリング』を受けたことがないと気づきました。ここまでの話はあくまでも、
・心の専門家ではない人に乗ってもらった相談
・心の専門家(臨床心理士)によるナラティブ・カウンセリング
の対比であって、
・心の専門家による一般的なカウンセリング
・心の専門家によるナラティブカウンセリング
の対比にはなっていません。

ですので、どこまでが「一般的にカウンセリングであれば行われる手法・態度」で、どこからが「ナラティブ・カウンセリング特有のこと」なのかは、私にはわかりません。

ただ、ここまでの話でひとつ言えるとすれば、やはり鬱など、少々特殊状況にあるのであれば、心の専門家(ある一定の知識や経験を積んでいて、少なくともタブーとされる行為がなにかを認識している人)にきちんと話を聞いてもらったほうがいいということでしょうか

おわりに

あまりきちんとした記述になっておらず、たぶんもう意味不明な部分も多いかとはおもいますが、ひとまず現時点でのおもいのたけを打ち込んでみました。書いてる途中で、ああ、あれも書かなきゃ、これも書かなきゃ、となっているので、まだまだ道は長いです……。

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