MENU

「私にとってのナラティヴ」総括(2020年4月時点)

ナラティヴを知って、ちょうど3ヶ月くらいが経ちました。その間に、ナラティヴ・セラピーについての本を読んだり、カウンセリングを受けたり、それをもとに自分について考えたりしてきまして、ある程度の、最低限の、ナラティヴさんとのお付き合いというものが生まれたように思います。ので、一度ここで今時点での総括(ってほどのものでもないですが。なんとなくまとめっぽいことを)してみたいと思います。

ナラティヴ・セラピーの知識面は、全然まだ何も知らないに等しいと思います。本を2〜3冊、それぞれを1度ザーッとさらっただけ。「もっとじっくりメモを取りながら、2巡目にいこう」と思いつつまだできていない。間違って認識してることもあるかもしれない。とはいえ、知識はへなちょこでも、体験したことは、紛れもなく私の体験したこと。しかも、私にとってそれはとてもエキサイティングなもので、この知ったばかりだからこその「すげーもん見つけちまった!!」という鼻息の荒さ、そういったことをひっくるめて、今の状態をメモリーカードにセーブしておきたいのです。(プレステ世代の発想。)どんなことも時間が経てばどうしたって薄れていってしまうから。

目次

なんでこんなにハマったの? なにが良かったの?

「語る」というプロセスのシンプルさが、つまるところ、いいなって思います。ナラティヴ・セラピーのなかでやることは「語る」というシンプルなことひとつ。とてもわかりやすい、と感じます。それゆえ、自分にとっては、行為そのものへの納得感が高い(手応えを感じやすい)です。多くの人にとっては、そのわかりやすさが安心感につながると思うので、「それなら……」と、試しにやってみよう! と思ってもらいやすいのが、いいなと思うのです。

なんだか全然うまく説明できてないなあ、これ絶対読む人に伝わらないよなあ……と思いながら今書いてるんですが、とりあえず清書は後回しにして、まずは思ってることをどんどん書き散らすことを優先します。はい。

私はこれまで様々なものを通して自己探求をしたり、自分のメンタル面をなんとかしようとしてきましたが、それらの多くは、あまり一般的でないものが多かったです。具体的には、催眠療法、西洋占星術、エネルギーワーク(レイキ)などです。自分にとってはひとつひとつの経験が大きな気づきや学びで、実際に大きな効果がありました。それぞれが持つ奥深さに興味を感じますし、それぞれが持つ力にも信頼をおいています。

ただ、それに近づこうとすればするほど、「つかみどころのなさ」も同時に強く感じてしまうのです。
そこでいったい何をしているのか? といったプロセスや、どうしてそのように説明できるのか? といった理屈が、はっきりしない。「そういうもんだ」と大前提をそのまま飲み込んだり、「こんなに効果があるんだから、そういうもんなんだろう」という帰納法的な理解をするしかない部分が、多少なりともあるように私には思われるのです。

別にそれはいいんです。私個人としては。私はどちらかというと、「科学では説明しきれないものもこの世にはあるだろうなあ」という考えを持っているほうなので、プロセスや理屈がブラックボックスだったりファンタジックに思われても、「そういうものもきっとあるんだろうなあー」ととりあえず受け入れます。なぜって「現実に効果が出ている」という、そっちのほうが大事だから。

でも、私個人としては受け入れられても「万人に勧めづらい」ですよね。どうしても。そこがきっとネックというか、はがゆいというか、深くハマってくことに躊躇いを感じてしまったところであります。
私も含め、ひとりひとりいろんな信条があるから、押し付けるつもりはない。でもこんな効果抜群のツールを使わないなんてもったいない……でもそこは無理強いできない……というジレンマ。「これすごくいいよ。よかったらどうぞ」って差し出しても、受け取ってもらえない率の高さというか。なんだろう……広く受け入れられる(受け取ることの心理的障壁の低い)、それでいて効果が高い手法を、私は、求めている……いた……? のです。だって、それを用いている総人口が多くなれば、それだけ、波及力というのか、心穏やかになってく波が、輪が、広がりやすいじゃないですか。
「受け入れられやすさ(?)」という属性値が高い”何か”を自分の『推し』にしたかった。

という流れがあった中でのナラティヴ 。推し、キターー! という感じです。なぜ「語るだけ」がこんなにも効果をもたらすのか? というのは現時点では謎ですが、それは深掘りし甲斐のあることです。あと、さっきから「だけ」と繰り返し言っていますが、これは正確ではありません。あたかも「語るだけ」に思える場が用意されている、そこにどれほどの準備や研鑽があるのかは、承知しているつもりです。多大なる集中力を持ってして、ナラティヴ的な態度で向き合い続けてくださっている、聞き手の存在があってのことです。

ナラティヴってどんなイメージ?

ナラティヴを説明する表現として、私がもっとも好きなのは「希望を掘りあてる考古学」です。Gerald Monk(ジェラルド・モンク)がそう呼んだそうで、すばり本の題名にもなっています。『Narrative Therapy in Practice: The Archaeology of Hope(邦訳:ナラティヴ・アプローチの理論から実践まで―希望を掘りあてる考古学)』

初めてこの言葉を見たとき、そのあまりの美しさに打ち震えました。一瞬にしてイメージが広がり、ナラティヴ・セラピーの持つ繊細さや力強さに思いを馳せ、反芻するごとに胸打たれ……。とても詩的であり、同時にきっとものすごく的確にそのなんたるかを表現しているのだろうなあと思わせる驚異的なフレーズです。

この表現があまりに巧みなので、違う例えを用いても、イマイチなことになってしまいそうな気がしますが、自分なりのイメージをあえて書いてみようと思います。私が持つナラティヴ・セラピーのイメージは、「目隠しをしたカウンセラーさんと手を繋いで、記憶の回廊を手繰っていく」ような風景です。

(ちょっと文章おかしいですが。歩いていく、のほうが伝わりやすい気がしますが、先に「手繰る」が思い浮かんだのでそのまま書いてみました。)(そして明らかにゲーム『』影響を受けている気がする……笑)

その回廊には自分の記憶や思いが描かれているたくさんのさまざまな絵画が飾ってあるのです。もし『アナと雪の女王2』をご存知でしたら、エルサが旅の途中でさまよっていた、雪の彫像が乱立する記憶の空間もイメージと近いです。その場合は、美術館ですね。絵画だけでなく大小様々な彫刻(立体作品)も展示してあるような。

相談者は『今の悩み』という題名の絵について語り、カウンセラーはその情景や感じているものが一体どのようなものなのか、興味津々に問いかけてくれるのです。

その問いかけの過程で、さまざまなことが起こる。それはわかりやすく、絵や絵に対する見方や態度が変わることもあれば、絵の額縁や、色彩や、大きさに変化が起きることもある。話の途中であちらこちら違う絵を見にいくこともあるし、ぐーーっとひとつの絵のただ一点にフォーカスし続けることもある。

その回廊を二人で過ごす(探索する)のが、不思議でおもしろい体験なのです。基本的には、先導するのは相談者だけれど、目隠ししてるカウンセラーさんの方が見えない分、興味のアンテナ感度が高く「ここってどうなってるの?」「もう一回教えて!」等々、思いがけないところに誘われたりするのです。(不意に、カウンセラーさんが星の王子さまのようにも思えてきました。「君の星(見ている世界)のことを教えてよ。」と。)

……なんだか書いていて、別にこれは遺跡をうろついているのと同じことで、絵画の例えにした意味がなにもないなあ(というよりやっぱり考古学って言い方のほうが忍耐力のイメージも感じられて、いいよなあ!)と思い始めているところですが。今時点でのイメージは、そんな感じです。

カウンセリングの時間

ナラティヴ ・セラピーという考え方を知ったことや、本を読む中での発見などもたくさんあります。が、そこではなくて「カウンセラーさんと対面してナラティヴ ・セラピーを受けた60〜90分間」だけに限定して、その中でのあれこれについて書いてみます。

思考をすすめる問いかけがある

どんな質問を投げかけるかはとても重要だ、というのはよく聞きます。質問の仕方ひとつで答えの方向性が大きく変わる……といったような。その意味で、ナラティヴ ・セラピーが投げかけてくれる質問=ナラティヴ 的態度(例えば、「問題が問題ではない」という考え)から創出される質問というのは、とてもユニークなんです。

普段他ではあまりないような問われ方をするから、普段と違った形で頭が回転し、普段使わない脳筋肉を使うことにもなり、今までになかった答え(言葉)が出てきたりします。(これは具体例があったほうがいいですよね。そのうち良いものを見繕って追記したいと思います。)

今まで見落としていた路地裏をずんずん進んでいくように思考が進んでいく。だから、他ではなかなか出てこない”モノ”(気づき、記憶、気持ち、発想、ひらめき、感情etc)に思いがけず出会いやすい。そんなふうな、ちょっと世間とは隔絶されたニュートラルな空間が、そこにあるような気がしています。

ストン…っとおちてくる瞬間がある

これはもう本当に不思議なんですけど。今まで散々、無理やり思い込もうとしていたこととか、本当はこう考えられればいいってことは心底わかってるんだけど、どうしてもそれが無理なんだ! といったことが、カウンセリングの時間のある瞬間に「ストン…ッ」とか「スッ…」とか、びっくりするくらい心に馴染むことがあるんです。もっと「そっか!!!!」「ピカーーーン!」みたいなこともありますけど。

なにがそうさせるのかは本当に謎です。これもまたいつか具体例とともにもうちょっと深掘りしてみたいと思います。

原動力をもらう

これは3回目のカウンセリングの時でした。まさに今こんな風に新たにブログを作って、書くことを始めているのですが、それは、あのときの「アウトサイダーウィットネス&リフレクティングチーム(OW&Rチーム)」を通じてのやりとりがなければ、ありえなかった。少なくとももっと遅くなっていたでしょう。

ブログ作りたい自体はもう何年も思い続けていて、特にここ数ヶ月で実際にやり始めたいと具体的に思い始めていたものの、決定的なものがないまま日々が過ぎていた中で。「作ろう。作るんだ。作らねば。ていうか作るもんでしょ。」と、自分の中で自明な、必然性をもった、あまりに普通のことと思えるくらいの、そんなものすごい後押しのエネルギーを背中から受けたのでした。

自分の中に潜っていく日々

ナラティヴ ・セラピーを実際に受けている時間と同じか、それ以上に大切だろうと思うのは、自宅でおこなう自問自答の時間です。たくさん話したことを改めて思い返して、自分なりに手探りで、もう一度、あるいは、さらに、思考を押し進めていく。その中での気づきは私にとって本当に大きなものでした。その考えに至るヒントがもらえたカウンセリングの時間は本当に有難いとしか言えません。

ひとつひとつ別の記事で詳しく語っていきたいな〜と思いますが、ざっくりと、この3ヶ月で自分の中で気づけたこと、気づくことでおどろくほど心身ともにスッキリ爽やかに快復できた内容について、書き留めておこうと思います。

とらわれからの解脱

「価値のある人間になって結果を出さなければならない」という価値観に長きにわたり根深く縛られていたのですが、やっと、やっと根本から、心の底から、抜け出すことができました。そこに至るために必要な要素は、去年からじわじわと集まってきていたのですが、ナラティヴ ・セラピーの椅子に座ることで、「心の奥深くで思っていることを誰かに語る」という必要性が出てきたため、モヤモヤと自分のなかにあったものが、言葉として少しずつ固められていき、体系的に形作られていき、ついには文章になって「そうか、こういうことだったんだ!」と、自分のなかで確固としたものになりました。

自分の声を聞いてあげること

今まで、内観とか、感情を解放するとか、自分の認めてあげるとか、散々そういう言葉は聞いてきました。その度に、いやつまりそれどーゆーことやっちゅーねん! やり方わからへんわ!! とエセ関西弁で逆ギレしてました。

それが今回、自分を掘り下げていくうちに……それは、ことあるごとに「全部自分のせいだ」という考えのもと生み出される思考に「なんかおかしくないか?」と疑いの目・観察の目を持てるようになったときに、「そうか、どんな外圧にも影響されない、まっさらな自分の素直な気持ちや叫びを、耳をそばだててしっかり聞いてあげることが、大事なんだ!」と自分で導き出せて。そうか、これが世間で言われてるところのそーゆーやつか! と。

これができるようになったのは本当に大きなことでした。例えば昨日もモヤモヤして思考が行き詰まりそうになったのですが、「本音はなに?」と自分に聞いてあげることができたことで、スッキリ整理に到ることができたのです。なんということでしょう!! なんという驚くべき効用なのでしょう!!

自分の特性について

「どうして自分はこうなんだろう」と感じていた厄介な習性について。それをカウンセリングでは「火」というモチーフで語り、それについて、宿題のようなかたちで(これは私が自らやりたくて取り組んだものです)さまざまな角度からの質問を複数もらって、それになんとか返答をしようと考えたこと。考えたものをしばらく経ってから改めて見直してみたこと。そういう熟成とでも言うのか、時間の経過による冷静さの獲得(?)などを経て、今は「こんな私なんだから、じゃあ、こうしてみればいいんだろうな。こういうことはあまりしないでおいたほうが、トラブルになりにくいよな」と、捉えられるようになりました。

大切なものはちゃんとあった

語っていると、繰り返しでてくる表現や感覚に気づくようになります。どうやらそれらは、とても自分に馴染み深く、小さな頃から自然と親しんで、取り入れて……きたことだったんだ。たとえばそれは、演じること。書くこと。ミュージカル。歌。物語に没頭すること。

鬱になって、好きなものがわからないとか、わたしにはなにもなくここまできてしまった、というように感じていたけれど、ちゃんとあったんだ。知らず知らず、毎日生きて呼吸をするなかで、無意識に、それらの要素を吸い込んできていたんだ……というのは、今まで灰色だった世界が実は色とりどりの美しいものだったのだと、気づけたような、そんな瞬間がありました。

それは、倉庫の中に埃まみれで仕舞いこまれていた。これは、もっと、部屋の真ん中に、一番目立つように飾っておくべきものだったんだわ! と、思い、実際そのように毎日に取り入れていこう! それが私らしく生きることなんだ、と思ったのでした。

さいごに

書くのにだんだんつかれてきて最後に向かうにつれとりとめもなくなってしまった・・・詳しくはまた!!

目次