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完全なる独り言と自分メモ

7月7日につらつら考えていた。
まあまた仕事というか去年とかのことなんだけれども。
なんかもう、めっちゃがんばらないといけないんだなあって感じで。
この世界でやっていくとなると、ここから一念発起めっちゃがんばることが必要なんだってことが明らかになってきてて、となればがんばるしかないんだけど、頑張るをやろうとすると、私の人生がそれ一色になっちゃうんだけど・・? ってところで。心の底では、「そんなのいやだ!!!」って思ってたんだけど、それを出した途端、それはつまり、その世界で生きることを放棄するってことだから、そんなのだめでしょありえないでしょ、って思って、その辺から自己矛盾エラーを起こした感じ。

このフィールドで生き残っていくならこのくらいのものが必要なんだなあと、思い知ることが多くて。
でもそれは、私が足りてないとかそういう話でもなく。
そういう苛烈な環境に身を置いてないと「生きてるってかんじ」がしない人もいる。
わたしは、そういうのはない。そこはあんまり焦点にない。

たとえば、フィギュアスケートの世界。あの世界で戦うアスリート、本当にすごい……って思うじゃん。メンタルの強さ、努力、根性、一つのものに一心に打ち込むあの感じ。あと、クライミングの人とか。自分の指紋を擦り落としてまで、限界を超えて行くような。ちょっともう狂気的な域の執念。すごすぎると感じると同時に、いや、もう、絶対に私には無理、って思う。そもそも足を踏み入れる気すら起きない。

で。
学生時代が終われば必ず入っていくものとなぜか思っちゃってる、あの世界。
毎日大多数がの人が通勤電車に乗って運ばれていく先の、あの世界。
それだって、フィギュアスケートの・・・アスリートの世界と同列にある、ひとつの世界に過ぎない。
なのに。
なぜか、私たちの多くは、あれは、みんなが必ず行かなければならない世界だと思ってる。
行けることが正常であると。

その先で得られるものに、とてつもない魅力を感じるなら、その世界へ身を投じていけばいいし、
そうでないなら、自分がどうしようもなく心惹かれて、とてつもない魅力を感じる世界を探す。まず。

「大事なのは、誰を好きかじゃない。
誰と一緒にいる自分を好きかということだ。」
映画『脳内ポイズンベリー』より)

それは、人に限らず。
死なば諸共
と思えるくらいの、生きていく場所、もそうなんだ、きっと。

(あくまで私はそう感じるってだけの話。『生きるとは、自分の全身全霊をもってとりくむ何かを見つけ、それと運命共同体となり、死ぬまで身も心も捧げることだ。それこそが「ほんとうのさいわい」であり、仕事とは、その延長線上に自然と生まれ出ずるもののことをいう』なんて、言うつもりもない。書きながら、じゃあこれが本当に自分にあてはまる文章なのかと問われるとまだハテナだし、まして、これが、誰かが倣うべきものであるはずもない。)

『誰かの言った「こうなのだ」というところに届かぬ自分を嘆く人』を、再生産するようなことだけはしたくない。それは私の本意ではない。

わたしは、こうなの。
あなたは、きっとちがうの。
共通する部分もあるとはおもう。
でもそれだって、きっと同じようなこと言ってんだろうなって思っても、あなたの場合は、別の単語(この言葉)で表現するほうが一番しっくりくる! っていうことも、あると思う、きっと。
その、あなたはどうなんだろう? っていうところを一緒に、お散歩しながら探してしていけたら、楽しそうだなって思う。

私の場合は、自分のやりたいことやってないと「生きてるってかんじ」がしない。

パートナーと言える存在を実感できないと「生きてるってかんじ」がしない人もいるだろうし。

力弱き存在と心通わせ、安心して眠れる場所を提供しようとする人もいれば、
サステイナブルな社会や取り決めをつくることをもって力弱き存在を守らんとする人もいる。
(・・・これはなんか話が飛んだな。)

片付けてたら、とある本が出てきた。
宝物のの本が。

パラパラと読んでいたら、うるうるきちゃったな。

今、この現実に生きている人たちが
世界に価値がないと感じていたり、
あるいは別の世界を夢想することによって
「自分の世界で生きる辛さを忘れよう」としたとしても、
結局はこの世界で生きていくしかないーー
だから、この世界で起こっているあらゆることは
自分とは無関係ではないことに気づいて欲しい。
「劇場版 鋼の錬金術師」という作品が、
そんなことを感じてもらうキッカケになるだろうか。

『劇場版 鋼の錬金術師 シャンバラを征く者 シナリオブック』まえがきより)

あー。
そうなんだよね・・・。
誰かに言われたとかじゃなくて、私自身が、
これこそが美しいと、強く美しい在り方だと、思ったんだよね・・・。

えっと、この映画のストーリーというか、主題というのか・・・。この物語の主人公は最初、「ここは自分の世界じゃない」といって、完全にぜんぶ他人事で生きてたんですね。実際、正真正銘この主人公は、別の世界からやってきた人間だった。だから、他人事というスタンスも、然もありなん、ではあったのです。
でも、クライマックスで、彼は思い直すのです。「どうあれ、自分は今ここにいる。ここで生きている。であれば、無関係でいられるはずはない」と。

そういう、「たとえ自分の世界じゃなくても、今間違いなくここにいるのだから、自らそこに関わらんとして生きていく」という姿。

自分もこのようにありたいと。
刻まれたんだなあ。

天上に輝く星のように。理想の体現者として立ち現れたそれ。
しかしどうあってもそんなふうにはおもえない、なれない自分。
大好きな作品が、言葉が、重いものになっていった。
まるで原罪を背負うかのような心地があった。

(なるほどな。そりゃ、転職転々とする自分を恥じるわけだよな。そこを選んだのなら、関わり続けれなければならない。という・・・。そして↑のほうで書いたことと、なんか対立するもんな、これ・・・。)

(ええ? 対立してしまうのか・・? それはなんかいやだ・・・そんな矮小な作品で在るはずがない、私の生涯においてあまりにも大きなこの作品が・・・)

(ええっと・・・たぶん、これ「世界」の認識の仕方である、と考えるのはどうか。なんていうか、狭くしか捉えられないか、広く捉えられるか。この文章が言っている「世界」=「今勤めてる職場」と捉えてしまうと、苦しすぎるんだけど、「世界」=「全世界」と思えば・・・。)

(めっちゃこじつけ・・・。贔屓目により理性がくもった・・・笑)

(と、ここまでは、7月8日に書きながら追記したところ。以下は、7月7日に考えてたことの、続き。)

でもね、今は思うんだよ。
そりゃむりだよ。
先に途方もない愛を与えてもらわなければ、そういう気持ちは発現しないよ。

たとえば、ひとりひとりがこの世界をよくしていくためのピースで、かならずそういう機能が備わっているのだとしても。まず外からもたらされないことには、動くはずがない。動力源というものが、必要だ。
どんなに立派なプログラミング、設計、機械が組み上がってたとしても。外部から電気を通さなければ、ただのガラクタだ。電気は、外側から何か違う存在によってもたらされなければならない。

機能は機能だけじゃ働かないってこと。
人間の場合、動力は、愛だ。

『HUNTER×HUNTER』に出てくる、ジンが残した、念を通さなければ開かない箱のように。

うん、『HUNTER×HUNTER』で例えるなら、念は修行しないと身につかない。
すでにそれを体得した人(ウィングさん)から、ドン! ってやってもらわないと、気孔?みたいなのは開かないし。開いたすぐに使えるものでもなくて、ものすごい実践を経て、体得していく。使えるようになる。愛のエネルギーもそれと全く同じ。

「愛」ってワードはいったいどこから出てきたんだ・・・と思ったけど、昨日みたこれかー。

(この作品シリーズの魅力は?と聞かれて)
(47:27〜)抽象的な表現になってしまうんですけど、「愛」ですね、僕は。愛はいろんな愛があるんですけども、例えばさっきの世界観なんかも、本当に、これは並々ならぬ・・執念じみたもので出来上がってる世界だなと。愛がないと、こんなに緻密で・・・でも、計算だけじゃないんですよね。そこに気持ちだったりとか。あの、割と設定がめちゃくちゃしっかり深く細かいのに、意外とファジーな部分とか、気持ちで動いたりする部分みたいなのも残ってるのが、割とリアルで。だからこそ、ここに生きている英霊たち、人間たちも、「あ、生きてるんだ、ここに。」って思える。作りものに思えない。そういうのって、システムだけじゃ無理だと思うんですよ。どんなに頭がよくて実力があっても、能力だけじゃなくて、そこに愛とか気持ちとか、情熱、情念、執念みたいなものがあるからこそ、あんなに役も世界も、そこに生きている人たちも、世界も生き生きしている。それがなんか、いろんな方向で。狂気も狂気で生き生きしてるし。陰鬱も逆に下の方を極めていってる人もいるし。明るい人もいるし。なんか、なんだろう、全部に並々ならぬ、愛。これは執念じみた、妄執のようなレベルの愛を感じる。だからこそこんなに緻密で、なんか、素敵な世界みんなが惹き込まれる。じゃないかなって。だから共感するんじゃないかなって。

『[AOF2020]Fate Anime Project Online Gathering』トークより)

うん、これはまあ、上で言ってる愛とはまた違う愛なんだけど。でもやっぱり、こういうことをしたいと思うんだよね、私も。生まれたなら。やるなら。愛を持って取り組みたい。嘘偽りない愛を表現できる場所、その対象を選びたい。

なんでこうも「生きる」というキーワードにこだわるかって。
中学生の時に見たミュージカル『HUNTER×HUNTER』の影響ですね〜〜〜。

ゴン:
生きてくってことは みんな自由な獣さ
風をつかまえてどこまでも
どんなところにもいけるってことだよ

ミツコ:
生きてくってことはとても難しいことね
いつか母さんが言っていた
今頃になってようやくわかるの

クラピカ:
生きてくってことは 自分との戦いだ
自分より大切なもののために
自分が戦えるかってことだ

レオリオ:
生きてくってことは きっと死ぬまでの生き様
自分より大切なものはひとつ
一人もダチを死なせないことだ

マダム・イサベル:
生きてくってことはそう、戦うこと

『それぞれの想い(M10)』『生きてくってことは…(M11)』より

こんなもん思春期に見てMDにダビングして毎日聴いて歌ってDVD見まくってたらもう魂に刻まれてとーぜんですわ・・・。

みんなそれぞれ生きるの定義も違えば信条もちがう、ただひとつ共通してんのはみんな生きてるってことだ・・・。

この流れでついでに書いておこう。
前述の映画と同じくらい自分に突き刺さって信条めいたところに昇華された一節。

人間というモノは、生死の境に立たされればどこまでも醜悪に、卑劣に、残虐になれる。女を犯し、子供を殺し、飢民から略奪する二本足の獣。血みどろの戦場はそんな餓鬼たちで溢れかえるのが常だ。
だが、否だからこそ、そんな地獄の直中にあっても、”証明”が要る。たとえどんな逆境においてもヒトは貴く在ることが出来るのだと、身を以て示す誰かが必要になる。
それが騎士だ。戦場の華たるべき者だ。
気高く、雄々しく、鮮烈に、騎士は戦場を照らさなければならない。餓鬼に堕ちんとする者たちの心に、栄誉と誇りを蘇らせて、ヒトに引き戻してやらねばならない。おのれ自身の怒りや悲しみ、痛みや苦しみよりなお先に、それは騎士たる者が果たさねばならない責任なのだ。

虚淵玄『Fate/Zero(3)』33頁より)

うんうん、あいかわらずこの文章はほんとうに好きだけど、(虚淵さんの書く文章はテンポが良いというか…息遣いが感じられて、小気味良さがあるんだよねえ)でもちょっと2020/7/8現在はまた少し感じ方がちがいますね。もうあんまり責任とか感じなくていいんじゃないかと。(だってそもそもあたしゃ騎士ではないw)やりたいからやる。っていう感じのほうに行きたい。そのかわりその「やりたい」の熱量や深さはごまかしのないものを。ってかんじ。

7月7日は大気も不安定で、ここんとこずっと湿度たかくてすっきりしない、けだるい感じ・・・ってこともあり。こないだ「一切合切」っていう単語をつかったこともあり。この曲が聴きたい気分にー。

今聞くとなんかすごい。
「後ろ指さされたって 一目散に逃げちゃっていいよ」
「後ろ指さされたって 緊急回避決めちゃっていいよ」
わかりみが・・・ふかい。

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