MENU

やってみて得られた「これは違う」の感覚が、やりたいことの輪郭をはっきりさせていく

私は、「これは失敗ではなく、このやり方ではうまくいかないことがわかったのだ」というエジソンの名言に心を支えてもらいながら生きているタイプの人間です。先日友人が「自分は『やってみてうまくいかなかった』という無駄が許せないから、見積もりの部分にいのちをかけてる」と言っていて、おあ~私と対極だ~と思って……そういう個々人のありようの違いは面白いですよね。私はもう、「やってみた」っていうこと、それで何かしら経験がひとつ増えたってこと、それ自体がもう楽しいじゃん最高じゃん! って思うタイプなので。(まあそういうふうに捉えておかないことには、自分のふるまいを肯定できないってことでしょうけども。)あと、私は見積もりはできない人だと、もうあきらめた。

(ただ最近は、あまりにもそれをやりすぎると、大切なことをなおざりにして……つまり、幹ではなく枝葉ばかりにかまけているうちに、大切なことに取り組めなくなってしまうという事態が引き起こされてしまうんだということに(今更)気づきまして……あるていど優先順位的な意識を持つことは大事だと思いました。なんでもかんでもやってみたくなっちゃうし、新たにやってみることへの抵抗感常にゼロだからなー)

もう10年以上ずっと、延々と「このやり方ではうまくいかないことがわかった」を続けている。(だから見ようによっては、ずっとずっと成功や達成と呼べるものに出会わぬまま、挑戦の残骸だけが背後に積み重なっていってる。)でも今日の私は別にこれを悲観的にとらえてはいない。そうやって繰り返すうちに、自分のかたちがよりしっかりと、精度さを増してきていると感じる。私ではないもの=違和感を、ひとつひとつ、剥ぎ取っていってるかんじ。そうして最後に残ったものこそ、まぎれもない私の「魂のカタチ」なんだろうと、おもう。

また 躓いて 転がって
それでも砕けない
魂の色は 何色ですか


ただ 傷ついて 強がって
それでも見つけたいよ
魂のカタチ 確かめてるよ

ReoNa『ANIMA』より

「自分がやりたいこと」についても、同じプロセスを踏み続けている。実際にやってみて、「なんか違う」という感覚に出会い、違和感の部分をパージして、よりしっくりする状態に・環境に、整えていく。なんて途方もない時間をかけないといけないんだと思うけど、そうやって自分で形成していったやりたいことのかたちは、ミリ単位でDIYした家具やインテリアのような、オーダーメイドで、これ以上ない程に自分の暮らし(生態系)にぴったりなものになるはずだから、出来上がったあかつきの居心地の良さというか、ストレスフリーなかんじは、たまらないはず。その過程にいるのです、今、私は。

これはもう、仕方ないですね。平均的に使いやすいように社会が用意してくれた既製品に、どー-しても馴染めないひとたちに対して、課される手間暇です。着ることのできる服がないなら自分で作るしかない。それはとてもめんどうだけど、その代わりに、唯一無二の自分専用スーツができあがるのです。

そう、「VTuber」というものすらも、すでに社会が用意していた既製品(既製の在り方)であったので、私がそのフォーマットにのっとってうまくやれるはずがないのだ。すでに名前のついているものはすべて、既製品である。既製品を模倣していくところからしか始めるしかないけど、守破離みたいなプロセスで、オリジナルをつくっていくしか、私の生きる道はないのだ。たぶん。

セレナがあなたの生活か人生か命の一部であるのなら、その、セレナが占める部分が、ふと笑顔がほころんでしまうような、ほっこりと胸があたたかくなるような、嫌なことを一瞬でも忘れられるような、そんな一部でありたいと思っている……そんな一部であれるようにがんばっていきたいと思っている、ということです。

2021年3月14日 限定公開日記より

当時こんなふうに書いていたのですが、やっていくうちに「私がやりたいのってそういうものじゃないな」ってわかってきました。みんなでわいわいする楽しい時間、心和ませられる癒しの時間、エンターテイメント、音楽、バラエティetc……私がつくりたいのは、そういうものじゃない。

「自分の心と静かに向き合う時間が大事」ってことを伝えていきたい。そのためのサポーターとしてナラティヴ・アプローチを使いながら一緒に並走するような立場であなたに関わりたい。私がこの世界に対して差し出したいと思っているしあわせは、自分の心と静かにじっくり向き合って、自分をつまびらかにしていくことによって得られる充足感。それを可能にするナラティヴアプローチという手法があるという情報を、伝えていきたい。

だから、「自分の心と静かに向き合う」ことができたかもしれない時間を、奪うことはしたくないわけです。私は、そういう時間を持つこそが、生きづらさをなくしていくうえでとても重要だという価値観をもっていて、この価値観に基づいて考えたことが、もしかしたらどこかの誰かにとっては有用なアイディアとなるはずだと思って、もしかしたら誰かの役に立つかもしれないからという願いを込めて、こういった活動をしている(始めようとしている)のです。

このように、自分のやりたいこと・活動目的・活動理由をきちんと定義し直せたことはとてもよかった。迷ったときとか、何をするべきか優先順位を決めないといけないとなったときに、ここに立ち戻って、これを指針にできるから。

***

ちなみに。「みんなでわいわいする楽しい時間、心和ませられる癒しの時間、エンターテイメント、音楽、バラエティetc」のことを否定とか批判しているわけではないです。もう、めちゃめちゃ必要です、これらは、この世界に。私自身、そのおかげで毎日心和ませながら、落ち込んだ時の逃避先にしながら、生き永らえている。

でも、「“私は”その役割を担わない」「“私が”やるべきは別のことである」ということです。それぞれがそれぞれの役割や領分を担って、それで持ちつ持たれつしながら、この世界をまわしていくんだって思ったときに、私が(現状の自己理解的に)やるのに適しているであろうことは、ナラティヴの伝道師として、上に書いたようなことをやっていくこと、と思っているのです。

大笑いすること、とても大事だと思ってる。それは、今年、長年連れ添ったパートナーに先立たれた祖母の家に行ったときに、心底思った。あのガランとした家の中に毎日毎日ひとりぼっち、テレビも大して面白くないし……って、ついこの間まで一緒にいた祖父の喪失感をつきつけられるあの静けさ、あまりにもつらいって思った。そして「あんたが来てくれて久々に大笑いしたわ」って言われて……笑いも、生きていくために絶対に必要なものだ。だから、笑顔を届けるという役割は、絶対にこの世界に必要なものだ。

だけど、あれもこれも、すべてのことを、私は一度にこなせない、担えないってことです。万能の力を持った神でも魔法使いでもない、ちっぽけな人間だから、たった一つのことしか選べない。そうなったときに、やはり私に適したポジションは、ナラティヴだろうと。(これも今現在の仮説なので、ここからまた実際にやっていくうちに、違和感を伴いながら、ちょっとずつ微調整していくんだろうけども。)

目次