(その3)を書かないうちに、補講の日を迎えてしまった。時系列がぐちゃぐちゃですが、熱い方の鉄から打ちます。
こちらの5月16日の(え!もうそろそろ1ヶ月!?)WSが内容が盛りだくさん&ゆっくり丁寧に進めたため、最後までたどり着かず、設けられたのが今回の補講。こちらの参加者に対して案内が来まして、開催されました。
ナラティヴ・セラピー講座(理論編の補講)
2020/06/06 (土)
9:30 – 12:45
会場:オンライン
前回のWSがまさに「理論編」だったのに対し、今回は「ではその理論をベースに、具体的な質問法にはどういうものがあるだろうか?」という内容ということもあり、グループワークではいつにもまして『各自の現場における実戦の難しさ』が語られたように思います。
その流れを汲んで、最後の全体質問の時間も、Bravo!!!!!な質問がバンバン飛び出していました。お一人お一人に、その質問してくださってありがとう!!!と握手をしにいきたいと思った。あれらの質問のおかげで、講座全体がさらに広がりを見せたように私には思われました。なんというか、この講義の空間(土日)が、日々の営み(平日)ときちんとつながりを持てたような。
やっぱりグループワークの時間が面白い
今回は2回、小グループに分かれての意見交換の時間がありました。あ、このグループワーク、毎回メンバーが違うんですよ。だから、会話はじめは毎回ちょっとお互い間合いをはかりながらになるのですが(だれから口火を切ったものか・・!と笑)、でもその分いろんな人(さまざまな現場の人)のお話が聞けるので面白いのです。
1回目のグループワーク
最初に私が参加したグループでは、人材・組織開発系の方がおもに集まっていました。企業内でナラティヴを実戦しようとするとき特有のむずかしさ・・のようなものを聞かせてもらったように思います。(問題解決に主眼がおかれがちとか、様々な立場の人の主張の絡み合いとか。)たくさんの人が関われば関わるほど、そこにナラティヴ的なものを浸透させていくって、本当に、大変だろうなあ・・・と聞きながら思っていました。
なんて大変なんだ・・・私だったらもうそれへこたれるわぁ・・・と感じるような立場で、奮闘されてる方がいて。もう本当にすごいなあと思いながら聞いてたんですけど、きっとそれは、どんなに難しくても「きっとナラティヴが浸透すれば、もっといい企業(チーム)になれるはず!」という確信めいたものがあるからこそ、挑んでいるのだろうな、と。
私自身も、もう少しもろもろ落ち着いたら、前職の会社にナラティヴの話をしに行きたいな〜と思っているのです。残念ながら体壊して退職にはなってしまったけど、今後も繋がりは持っていたいし、応援していきたいと思う会社なので。
私が勤めていたこの会社は、多様性とか個性とかを大事にして、社員全員がフラットで、それこそが自社の強さなんだ、という企業文化でした。社長も社員もそこをすごくやっていきたいと思っていて。そういう取り組みをしようとしてる会社って今増えてきてると思うんですね。最近、心理的安全性って言葉もよく聞くし。みんなそれはわかってる。やりたい。やろうとしてる。なのに、なんかなかなかうまくいかない、どうやったらいいのか・・・っていうのは、昨今あるあるなのではないかなぁとなんとなく感じています。
そこに、ナラティヴがなにか貢献できそうな気がする。心理的安全性とナラティヴはなにかつながりあえるところがあるような気がする。と私は思う。まだ全然まとまってないけど。社外常駐して心理的安全性を完全に失ってメンタル壊して退職したけどナラティヴ・カウンセリングの場でこのうえない心理的安全性を感じてみるみる回復した私はそう思うのだ。
なので、そのあたりの思うことをパワポにまとめて15分くらいのちょっとした発表をしに行きたいのだー。土日に有志の読書会(ジャンル不問)とかやってる会社なので、とりあえずまずはそこに「こんなん見つけたー」ってライトな感じに持って行きたいのよな。でも組織開発系で特にどういうふうに用いられてるかとかがわからないので、そういうことに携わってる方に具体的なお話きいてみたいんだよなー。
そんなことを思いながら聞いていました。あとは、ナラティヴ的な問いかけに馴染みがない人に対して、具体的にこういう返しをするといい流れに持っていけるとか、現場の知恵みたいなのを共有してもらえたのもありがたかった!
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2回目のグループワーク
後半のグループは、心理職の方が集まっていました。おもに「ダブル・リスニング」や「抵抗」についてが話題に上がりました。一人の方が現場での経験をシェアしてくださって、その話を聞きながら、私は自分が体調を崩してベッドの上で動けなかった時のことを思い出していました。
「鬱になって何もできないんです。ベッドの上で息をするだけの肉の塊です」
今年の1〜2月ごろの私は、きっと自分をこんな風に描写したと思う。本当に何もできない。せっかく会社やめてたっぷり時間があるんだから、積読してた本読むとか、アニメみるとか、せめて音楽聴くとか。なんか楽しいことすればいいじゃん。もったいないよ、時間が。そんな風に思うんだけど、なにもできない。やりたいと思えない。体が動かない。
でも、今回のWSを踏まえて・・・本当に、私は何もしていなかったのだろうか? と考えてみる。すると・・・そうだ、アプリゲームのレベル上げしてた。(でも、レベル上げはなんにもならないじゃん。RPGのストーリーを楽しむのならさ、小説読んでるようなものだから、得るものがある。レベル上げって私にとっては一番楽しくない・何にもならないと感じる要素じゃん。それは何かやるにカウントされないよ。)でも、事実、やってたでしょ。むしろ、普段、元気な時であればめんどくさがってやらないようなことを、やってたってことでしょ。それってどういうことなんだろう・・そこにはなにがあったのだろう。(・・・キャラクターを育ててた。)そうだ、それだ。
その時私がやっていたのは、30年以上続くシリーズ作品が題材になったアプリゲーム。全シリーズの登場人物が総出演するそのゲームには、私が中学生のときにどハマりしたナンバリングの主人公・盗賊の少年ももちろん登場していた。私は寝込んでいた日々のなか、そのキャラクターただ一人ををひたすらに育てていた。経験値を積ませ、技を覚えさせ、強い武器を持たせ、チームを引っ張るエースになるように。
だから、私は何もできない肉の塊ではなかった。私はそのとき、心から愛おしいとおもう存在を、育んでいた。慈しんでいた。愛を与えていた。成長して、強くなっていく姿がうれしくて。ありがとうスティーブ・ジョブズ。ねたきりでも、指先一つ動くなら、私は愛を与える存在になれるのだ。
・・・途中からポエムになってしまったな! えーっと!
これは何に抵抗してたのかなって考えると、「過去を思い出してネガティブマインドの沼(ループ)にはまりこむこと」にあらがっていたと思うのです。そこに入ると自責&涙でダメージ受けることはわかりきってるから、なんとか、考えないように。気を紛らわせるように、何か他のことに没頭することで思考がそちらに向かないように。
あるいは、「自分の心を癒そう」と取り組んでいた。もう、音楽が、本っ当に心にしみたんですよね。中学生のときにエンドレスで聴いていたゲームミュージックが、アプリゲームでも流れるもんだから。砂漠で水を求めるように、本能が欲したのかもしれない、あの音楽を。
あとはある意味「なにもしない」ことに取り組んでたとも言える。自分が一番、こんなことじゃだめだ、はやくなおさねば、なにか生産的なことをやらねばって思っているもので。でもそうやって頑張ろうとすることが今は一番体に悪いってこともわかってた。だから、一生懸命、「なにもしない(できない)自分」であることに耐えてた。挑んでた。
・・・このあたり書いてたら今またさらに思いついたことがあった。やや話が飛ぶので外出しにしよう。
外在化の質問をどうなげかけるか
私は現状、基本的に自問自答にナラティヴを用いているのですが、たまに家族や友人との日常会話で、「おっ、もしかして今使えそうなタイミングか?」と思ったら、なんとなくナラティヴっぽい質問を織り込むようにしています。ただ・・・やはりそれも、むずかしい。先に続かないというか。ナラティヴっぽい道に入っていかずに不発感がある。感覚としては
- 相手:テーブルのど真ん中にドカンと「こういう問題があるのよ!」と『問題』を置いてくる
- 私:「なるほど・・・でも、一旦それは置いといてさ・・」と、置かれた『問題』をちょっと脇におく(ことを意図した言葉を返してみる)
- 相手:「だって私が(or誰かが)問題なんだもの!!」と、さっき私が横に置いたはずの『問題』を瞬時にテーブルのど真ん中にドカアアン!と戻してしまう
- 私:Oh・・・・
という感じ。相手が、私のちょっと不思議な質問を、本人の答えやすい(慣れ親しんだ)質問に脳内変換して、その変換された問いに対する答えを返してくる、という感じ。
しかしこれもやはり、私の質問の仕方なんだろな。きっと。別の場所に誘う力がきっと弱かった。
あとは、1回でくじけないことだよね。私英語圏に行った時に・・・ってちょっと話したい話を思いついたんだけどまた今度にする。
うっかり「どうして?」が出てしまう
今回グループワークのときに「し、しまったー」と思った瞬間がありまして。それは、グループメンバーの方に質問するときに、つい「どうして・・」が口をついて出ちゃったのです。ああー。
「もっとそこが詳しく知りたい」という感情がわきあがったときに脊髄反射で「どうして」って発語しちゃうように身体ができあがってしまってるんだなー!ああ〜〜と頭をかかえた。母国語の弊害ですね。ナラティヴ会話してるときは日本語じゃなくてナラティヴ 語を喋ってるってモードを切り替えたほうがいいかもしれない。
その他いろいろ
ここから先は箇条書き的に・・・
僕たちは歴史を紡いでる
例の「私の持論」のくだりで! 「では一体誰が持論を持っているのか? そうやって僕たちは歴史を紡いで来ているんだ」というお話がありまして。これは私の心にクリティカルヒットすぎて・・・すごく書きたいことがあるのですが、そのうち・・・!
位置付けへの要請
語り手を「自分の人生を誰かに教えてあげるというポジション」に誘う・・という話を聞くと、私は『しくじり先生』を連想します。教壇に立っていちばん内容を熟知しているのは語り手のほう、という構図がなんだかそれっぽいなと。
誰の声が助けになっているのか
家系図にそってひとつひとつ聞いていたらたどり着けない、という話には、なるほどなー…と。私なんて多分、自分を支えてくれてる人・言葉ってぜったいフィクションの存在か歴史上の人物になるだろうしな。
Speaking into Existence
ここのところのメモに「ひぃぃ深すぎるーー」って書いてあることからもわかるようにすごい感銘を受けた・・・。と同時にふと連想した歌があったりしたんだけどこれはもうちょっと整理してからまた別の機会に書く。
全体を通して
全体を通して思ったのは・・・。私なんかはほぼ趣味で自分のために学んでいるので。そんな私がなにを言えるわけでもないのですけど。(でも書いちゃうんですけど。)
仕事で用いるとなれば、責任もある、成果を求められる、というところで。私の学びのお気楽さとはちがっていて。そして職場においては、派閥とか上下関係とか人間関係の複雑さもあるし、個人対個人の相性もある。だから、そんな中でナラティヴの学びの実践とは本当に大変で、困難なことで。だから、「難しい、できない、せっかく学んでいるのに」と悔やむというか、苦しみというか、そういうものに追い込まれるというのは、想像にかたくないです。
でも、いち、今までの人生でナラティヴに出会うことなく、そしてここにきて初めてナラティヴに触れ、それに救われたことのある者としてはですね。「その場所でただ一人、ナラティヴ を知っているということ。それを大切に思っていること。」それだけでほんとうにありがたい、尊いことだなと思います。それを思うように表現できなくても、それを知っている、表現しようとしている・・・という、それだけできっと、なにかひとつ違うはずだと思うのです。
実践できなくても、実践したいと歯がゆく悔しくおもっていることこそが、それこそが・・。・・・ていう部分を私はナラティヴ から幾度もメッセージとして受け取っているような気がしています。
写真素材:ぬ文ちゃんさん