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5月16日のWSを通しての徒然(その1)

書きたいネタが日々積み重なっていく一方で一向に更新されないので、いつにもまして書きなぐり&未完成だけれどもとりあえず投稿!! しかも書きたいこととの半分にも達していない。だから(その1)ってことにして、一旦投稿するのだよ!!

先週の土曜、以下Zoomのワークショップに参加しました。1000%自分のための覚書やら書き殴りの自問自答をつらつら書いていきます。

「外出自粛時期特別ワークショップ(その5)「ナラティヴ・セラピー講座(理論編)」
2020/05/16 (土) 9:30 – 16:30

「自粛以降ずっとナラティヴ Zoom講座三昧」という方がいらっしゃったけど、私も割とそれに近い。皆勤賞ではないけれど。個人的にZoomがいいと思うのは、パソコンでメモが取れることですね。セミナーによっては(ビジネス系のセミナーなら)カタカタとノート取るのも当たり前の空気が流れてますが、その空気があまり感じられない場もあるので。いや、「PCでメモとっても良いですか?」って聞けばいいんだけど、億劫でね……てかそれで仮にOK出ても、自分だけカタカタするのも憚られるチキンなので……。

と、関係ない話でした。もちろん他にも良いなーということはいくつかあって。なかでも地方の人が参加しやすいのは本当に良いこと!! 今でこそ東京歴10年を超える私ですが、もともとは新幹線の通らない陸の孤島県に住んでおりましたゆえ、都会でばかり開催される各種イベントに血の涙を流しておりましたから。行き帰りの交通や宿泊、そこにかかる労力とお金……って、ほんと。ほんとにZoomさまさま。

さて、思い浮かんだことから順につらつら書いていきます。

「疑うこと」

ワークショップ全体をぼんやりと思い返そうとしてみて、まず最初に思い浮かんだのが、「疑うこと」というワードでした。懐疑主義、という単語を連想しながら聞いていた部分があったなぁなどと思い出しつつ…。あ、この単語のきちんとした意味を理解しているわけでもないですし、響き的なところで、です。当然だと思うことを(科学も。教科書で学んだことも。)もう一度、問うてみる。その真偽を確かめるためというよりは、「なぜ今、私は(私たちは)それを採用しているのだろうか?」という部分を検討するため。本当に、それを、ひとつひとつ、逐一、つぶさに、ゆっくりと、一歩一歩、やっていくんですよね。だから考古学にも例えられもする。

いやー、うん、なんかわかる。私、初めてのナラティヴ ・カウンセリングを受けたあとに強く抱いた思いの一つが「なんで私、今、日本にいるんだっけ?」だったもんな(笑)。別のところにいたっていいはずなのに。なんだか当然のようにもうこれからは日本にいて日本社会に適応していかなきゃならないと(その道しかないと)思ってたけど、あれれ、なんで、いつの間に、私はこの日本という土地から発せられてる重力に引っ張られてたんだ!? みたいな。(「日本という土地から発せられてる重力」って、どんなものか、もうちょっと詳しく教えてもらっていいですか? と深めていくことでまた色々出てきそうだな…でも今はとりあえず保留。)

こういうふうなことを全部に対して再検討していくってことよね。「ここにいる」っていうのは、「この価値観に則って考えている」っていうことでもあるか。
自分のストーリー語る際に選ばなかった部分に光を当ててもらうと、なぜか、こういう足場の再検討みたいなものが浮上してくるんだなぁ。ふしぎ。

・私がことばを語っているときにことばを語っているのは、厳密に言えば、「私」そのものではありません。それは、私が習得した言語規則であり、私が身につけた語彙であり、私が聞き慣れた言い回しであり、私が先ほど読んだ本の一部です。
・「私の持論」という袋にはなんでも入るのですが、そこにいちばんたくさん入っているのは実は「他人の持論」です。
・私が確信をもって他人に意見を陳述している場合、それは「私自身が誰かから聞かされたこと」を繰り返していると思っていただいて、まず間違いありません。
(内田樹「寝ながら学べる構造主義」)

配布資料P.15より引用

なかなかに衝撃的な記述。でも、なんだかものすごく納得感もある。私は特に2番目の袋の例えが面白かった。アインシュタインの「常識とは、18歳までに積み重なった、偏見の累積でしかない。」という言葉とも繋がるような。(って、これも大元のソースってどこなんだろ?? 名言集とかで見たことあるだけだわー私。・・・ちょっと今は調べにいく時間がないのでご勘弁を)
ちょっと前の私は自分の語彙の稚拙さに嫌気がさしていたのだけど、そりゃー小さい頃から自分の袋に入れてきたものが絵本にファンタジー小説にゲームに漫画にアニメに・・・空想的な描写を得意とするものや、青少年が感情を発露させる時に用いる語彙ばかりだったのだから、さもありなん。新聞は読まないし、国会中継も見てこない人生だった。「ビジネスの現場で使うお堅い二字熟語が全然出てこなくて、本当に私は幼いんだ。バカなんだ」と自分を罵倒してたけど、そりゃ、袋の中に集めてきたものの毛色が全然違うのだもの。それだけのことよ。・・・と、今では思うのだけど、当時は、「30も過ぎて、ここからまたビジネス用語・ビジネス言語規則を一から覚えなければならないの?(そうだよね、そうじゃなきゃ社会に出ていけないもん、この世で生きていけないもん)」ってな風に思って、果てしないことに絶望してどん詰まりしてしまったわけですが、今はこう思ってます、「いやいや、その場所って、そもそも私が行きたい(いたい)場所なの?」と。「命を賭してでもそこへ行きたい・ここにいたいと心が疼いてしかたないのなら、そりゃ、そこでの言語(コミュニケーション方法。それはきっとその地域や環境に限定的なもの。)を身につける必要があるけれど。そこんとこどうなの??」「もし、そこまででもないのなら、別に、いいんじゃない? だって、そこへいかないなら、使わないでしょ?」

言語規則。
私は英語全然喋れないけど、それでも、英語話者の人にカタコトで何かを伝えようとするときのほうが、「つまるところなんなの?」っていうのがシンプルに表出・・出力?される感覚があるんだよね。日本語話してる時よりも、情報伝達がスムーズにできる自分になれてるんじゃないかって思ったりする(幻想かもしれないけど。笑)そもそも知ってる単語量が限定されてるから、心情描写とか微妙なニュアンスなんて削ぎ落とさざるをえないし、文法的に、主語決めないといけない→肯定文なのか否定文なのかはっきりしないといけない→そして動詞を確定させなきゃいけない、って、もう、強制的に、「つまり何なの?」が固定されていく感覚がある。自分でも、「あ、結局はそういうことか。」ってストンと落ちてきやすくなる。「英語で言うとしたらなんだろう?」って考えることで、言わんとすることが明確になっていく。(最近はすっかりこのプロセスにご無沙汰だけと)
やっぱりわたしはもうちょっと英語を話せるようになったほうがいろんな意味で幸せになれるような気がするなあ・・・。

「私が身につけた語彙であり、私が聞き慣れた言い回しであり、私が先ほど読んだ本の一部」という部分も、やっぱり英語圏にいった時に、それっぽいこと感じたんだよね。ネイティブたちの食卓での会話、バスのアナウンス、ティーンエイジャーたちのやりとりを聴きながら「ああ、こう言う場面ではこういう風に言うんだな」って思って真似っこで言うようになったり(そういうことするとホストファミリーは「どこでそんな言い回し覚えてきたの?ww」と笑ってくれるのがまた楽しい)、ディズニー映画で言ってた言い回しをそのまま流用したり。日本語だって、そうやってきっと身につけたんだろうなあ、覚えてないだけで。とか。
ぜんぶ、それまでに見聞きしたものによって、構成されている。それでしか、出せない。というのは本当に感じた。くしゃみをした相手に形式的に「bless you」って言うようになるにつれ、ああ、私たちは体調が悪そうな人や咳き込む人たちに「大丈夫?」って声をかけるけど、それは心配してるっていうより、ずっと幼い頃に「ああ、こういうふうにしているひとには『だ-い-じょ-う-ぶ-?』って音を投げかけるものなんだな」って、意味もわからず言ってみたのが始まりなのではないか。なんて。

ふと、チコちゃんに叱られるが思い浮かんだ。ボーっと生きているっていうのは、あれだ。「それはそういうもの」と、さまざまな知識をそのまま取り込んじゃうことなんだ。自分の中の検疫官が完全にやる気なくて、検査もなく全部通しちゃう。だから後になって、体が重いとか頭が働かないとか症状が出始めて、でももうその時には発生源が特定できない。だから「一同整列!これより総点検を始める!!」みたいなことに…。

この「疑う」っていうこと、知識を取り込むときに一瞬でもいいから検閲をすること、あるいは、その時間がなければ「これは未検閲。さしあたり取り込んだもの。これを今後なんらかの判断の根拠にする際は、改めて検討の必要あり」と付箋をつけておくこと。それだけで、「なんだかわからないけど苦しい。モヤモヤする。」ということが少なくなっていくような気がします。

「解釈があるのみ」

フーコーが一貫して立ち返る原点は、真実は存在しない、ただ真実だとする解釈があるのみ、という考えなのです。
(スティーヴン・マディガン「ナラティヴ・セラピストになる」43頁)

配布資料P.11より引用

「解釈があるのみ」という考え方は、私は10年前に受講した某自己啓発セミナーで知りました。ウィリアム・グラッサー博士の選択理論。あ、でもそれは「『事実』は存在しない」だったので(そのセミナーでもらった資料に「事実=実存している世界=していること」「解釈=知覚された世界=思って/感じて/知っていること」と書いてあります)、ちょっと違いますね。目の前で起こった事象(事実)についてか、この世の中の様々なことをもっともらしく説明するもの(真実)についてか……。(うわ、なんか、このフーコーの立場すごい深いな。やっぱりきちんと著書読みたい。)

ああ、いまちょっとわかった気がする。頭打ちになっちゃったんだな。この10年は「事実は存在せず解釈があるのみ」というやり方(思考法)で、うまくいった(改善したことも多くある)し、なんとか乗り切ってこれたんだけど、とうとうそれだとどん詰まりになる状況に陥ってしまった。

それは何かというと、「何か良い形で解釈しなければならない」と自分に強いてしまうこと。思い込もうとする。心でそれに納得はしてないのに、こう考えなきゃ、考えろ、と。それができないなら自分が悪いループにはまる。それはどこかで破綻する。

私が体験したナラティブの場合、ある特定の解釈を自分で自分に押し付けようとしない感じがあった。はじめに解釈ありき、ではなかった。というより、「こういう解釈がきっとできると思う。でも、私はその解釈を採択したくないのだ。」という私の思いを(「そこはそういう解釈で手を打っておこうよ」とか「えぇ?大抵の人はそう受け止めてうまくやってるでしょう?なんでそこで納得しないの。ひねくれ者ねぇ」とか言うことも、嫌な顔も一切見せず)受け止めてもらい、さらにそこを深掘りできるように促してもらえたのだ、まず。そうすると、その流れでまた色々語ってると、不思議なことに、心が自然と(全く無理のない形で。清流のせせらぎのごとく穏やかに)フッと腑に落ちてくるものがある。それはもしかしたら、当初思い込もうとしてたものと結局は同じになるかもしれないけど、でも、その時点ではこの上なく自明なことになってるので、無理なく(むしろ自分からそう思いたいと思えるほどに)自分に馴染む気がする。

「この私」「この羊」

上記を書いてる途中で、「この私」「この羊」(配布資料P.28-29)を思い出した。

「大多数の人はそれでうまくやってるんだから、あなたもそのようにできるはずだし、(しなければならないし、)そうなさい。」
・・・って、ほんとうに・・・・・・つらいんですよねーー。(かっこのなかは裏メッセージってやつですね。暗にそういうこと伝えてしまってるよねってやつ。)自分で自分にこれを言い諭しまくって苦しくなりすぎてバタンキューとなりました。はい。

ナラティヴ・カウンセリングでは、なんらかの診断名に押し込められることなく、「この私」と向き合ってもらって、本当にありがたいことでしたねえ・・しみじみ。

人間っていう大カテゴリのなかにみんな収まってしまってるから、みんな同じなんだととらえがちだけど、ほんとは一人一人が全然違う、別個で固有の生命体だってことを、ほんとに認識しておかないとアカンよね。って最近本当に思う。もちろん共通していることのほうがきっとどちらかといえば多いし、そういう前提に立つからこそ、医療や健康や教育や……いろんな分野が発達していけて、恩恵も多い。でも、「とはいえ本来は固有なんだよね!」って定期的に了解し合う、思い出す、って大事だと思う。ああ、その立場に立てば「例外」って言葉すらなくなるね。

ちなみに・・・

あと・・・どうしても書きたくなっちゃったので、ちょっと迷ったけど、書き残しておきます。

最初に言っておくと、批判する意思はまったくありません。・・・と前置きしたところで、この流れで話すならばそれは批判とみなされてもしょうがないのですけど。私の場合は、大変な思いをしちゃいました、というエピソードの共有です。

C:
由美さんは「注意されるから、自分はだめなんだ」という考え方を選択していますが、あえて違う捉え方をすることはできますか?
由:
・・・「次はミスをしないように努力しよう」と考えることもできます。
C:
そうですね。それに、注意というより、“教えてくれている”と捉えたほうが適切かもしれないですね。他の人から受けるものは、情報なんです。「私がスムーズに仕事ができるようになるために良い情報をくれたんだ。うれしい、感謝!」と考えたら、落ち込む必要はありませんよね。
由:
そうですね。

日常での応用範囲 ケース #001「ビジネス」 ー『選択理論.jp』より

私はこれとほぼ同じやり取りを、自分の中で何千回と行いました。この10年間。私Aと私Bの会話と考えると、AがBに考えを伝授しています。私Bは私Aの考え方が、ごくまっとうで、そう考えることが正しいと、希望を見出しました。だから、一生懸命そのようにつとめました。あるときまでは、できました。そうやって考えることで、前向きに、建設的に、日々を過ごしていくことができました。「教えてくださってありがとうございます感謝です!!!(笑顔!!)」って振舞っていたから、相手の心象を悪くすることもなかったでしょう。私Aの励ましによって物事はうまくいっていました、あるときまでは。・・・そう。ある日、うまくいかなくなったのです。

(なぜか? 「注意されて、傷ついた。悲しかった。ひどいよ!!」っていう一番根っこにある素の感情を、無視したから。黙殺したから。私Aも私Bも私Cも、とにかく全私が総動員して本来「そうだよねーー!傷ついたし悲しかったしアイツほんとひどいよねーー!!」って同意して、いたわってあげなきゃならない、最前線で戦って傷ついて帰ってきた私に対して、実際は全私が「もっとがんばれお前わたしならできる!」「全然痛くない!!」「痛いのは弱いからだもっと強くなろう!!」と鼓舞してしまったから。そうして私はもう心の痛覚が麻痺した。自分が見えなくなった。何を感じてるのかもはやわからなくなった。あーー。まどマギのさやかちゃんだぁ・・・。)

伝授はときに、押し付けになり得ます。私Bは、私Aの考えが「正しい」と思っているからこそ、その正しさに準じることのできない自分を「間違い」だと思い始めます。「いや、間違いではない。まだできてないだけだ。」とさらに思い直したこともあったでしょう。それもまた何千回と繰り返したことでしょう。・・・ある日、破綻しました。瓦解しました。これ以上、虚勢をはってここに立ち続けるのは、もう無理だ、と、崩れ落ちました。(物理的に。)

ワークショップのグループワークでも似たような話が出たようにも記憶してる。別に、ナラティヴ・セラピー以外の全ての方法論が間違いだとも不完全だとも思わない。大抵はうまくいくものばかりだ。でも、不意に、うまくいかなくなってしまうこともある。そうなったときに助け舟を出してくれるのが、ナラティヴ・セラピーのような気がしている。

・・・ふふふ。「でももしかしたら10年後また頭打ちになっちゃうかもしれないね??」なんてことも思い浮かんでしまった。いやー、たとえそんな結末だろうと、ここからの10年、この世界にどっぷりハマることになんのためらいもないね!! 逆に思いっきりどっぷりはまってやるよね!!

はい、とりあえず一旦ここまでーーー!!

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