今日はめちゃめちゃ目覚めが悪かった。4時に起きたのに、頭が疲れ果てていた(起きてからたった1秒しか経ってないのに!)。ふつう、わーーっとアウトプットした次の日は驚きのすっきりさやわかさをもって目覚めを得られるのに。がっかりだ。二度寝して、結局起きたのは6時。それも相当頑張って起きた。(しかも、二度寝した時に見た夢では、起きたらお昼の12時になっててうわー・・・ってなってた。)
「学校に行きたくない」という夢は、定期的に見る。わりと頻度高め。2〜3ヶ月に1回くらい? ・・・やばくないっすか? いまだに見るんだよ。で、私は夢の中では本気でそれを現実だと思っているので(明晰夢なんで見たことがない)、本当にもう、本気で「いやだーー。いただあああ!」って、その時、胸に苦しいものを抱えて、眉間にしわを寄せている。(多分きっとリアルに。)そうして目覚めたあと、私はいまもう社会人だったということを思い出して、心から安堵を覚える。あれが現実に起こることはもうないのだと。
フラフラとダイニングに移動して、ソファに座り、すっかり疲弊した頭で、とてもすがすがしそうな窓の外の景色をぼんやり見つめながら、思った。今日は外をお散歩しなければむりだ。と。そして、「これは、書けってことだ。」と。
だから書く。そうしたら、私はこの夢と決別できる気がする。
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正確には「学校に行かなければならないという圧を受ける夢」だと思う。怒声を浴びるという感じではない。ただ、時計というものがあって。「そろそろやばいんじゃない?」っていう冷静な指摘を受けたり、自分でそれを感じていたりする。今日見た夢の場合は、休むのならちゃんとした理由がないとだめでしょうみたいなことを言われていたような気がする。
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少し前に見たこれが、忘れられない。
学校に行きたくないと布団のなかでぎゅっと身を縮こませる少年に、父親は、その耳元にけたたましく鳴る目覚まし時計を押し付けたという。
(・・・ああ、それはまるで、虐待じゃないか。)
と、見ながら思った。いや、”まるで”じゃない。それは虐待だ。(「あれは虐待だったと、思っても、いいんだ。」と思うことになるのは、もうすこしあとのはなし)
・・・こういう風に書くと、絶対に、うまく伝わらないことはわかってる。歪んで伝わってこちらが責め立てられるのはわかりきってる。うん、たしかに、語感やそれから喚起されるものごとがあまりによくない。そんな火種を抱えた休火山のような単語をわざわざ使うのはうまくない。だから、言葉を変えよう。
それは、「『その瞬間相手がどう感じているか』というものが存在している・・ということが、まさかあるなんて思いもしないまま、あるいは、仮にその存在を認めていても、その優先度はこれに勝らないと判断し、相手を『make 〜 do』する行為」だ。
まわりくどいしわかりにくいね。
本当は、使役っていう言葉も出てきたんだけど、これもまたうまくないなあとおもったので、使役動詞を使ってみた。(英語に詳しいわけじゃないので、もしかしたら色々間違ってるかもしれません。以下のページで説明されている限りの内容をもって、このように書いています。)
成長した息子と対面した父親は、目を押さえながらこう語る。
「お前の幸せを思っていたのだ」(※)
と。
そうだろう。本当に、本当に、そうだったんだろう。
わかるよ、私も。そこになんの嘘もないことは。お天道様に誓ってそうなんだってことは。それが幸せに続く道に違いないと信じていたんだよね。
なんでこんなことになっちゃうのかね。
(※)記憶を頼りに書いているので、このような表現ではなかったかもしれません。でも言わんとしていたのはこういうことだったと記憶しています。まだ時間ができたらきちんと確認します。
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もうひとつ、忘れられない瞬間がある。
今年の1月21日の深夜のこと。鬱の診断を受けたばかりで、体も心も奈落の底にあり、ベッドの上でミイラのようになっていた時期。一冊の本を読んでいた。長くなるけど、引用します。
「『何が』あなたの足を止めてしまうのですか?」
筆者は、前に座っている中学生に聞いてみました。母親に付き添われて学校の相談室に来ている一郎くんが、元気なさそうに座っています。(略)
この親子と面談することになった経緯は、次のようなものです。学校に来るはずの一郎くんが登校中のどこかで引き返してしまい、日中、行方不明になってしまったのです。中学生である子供が行ける場所は限られているため、母親が息子の所在を簡単に見つけることができました。しかし、親や教員が理由を尋ねても、本人から具体的な話を聞くことができませんでした。そのため、スクール・カウンセラーに話を聞いてもらおうと、教員が面談の日程を調整してくれました。
(略)
このようなときに「ありふれた言い回し」であれば、「なんで(あなたは)学校に来なかったのか?」「なんでそんなことをしたのか?」という表現が一般的なものでしょう。表現のレパートリーはあるにしても、共有点はこの問題を引き起こした主体として相手を位置付けることです。(略)ここで、責められるかもしれないという不安が強い場合には、優しく「どうしたの?」と尋ねても、同じような意味として受け取られる可能性が残ります。私たちの質問をどのように相手が解釈するかは、相手が自分自身でしてしまったことをどのように理解しているかという文脈に依存します。そのため、私たちが持つ「あなたを責めているのではない」という姿勢が、できるだけ、言葉の表現からにじみ出る必要があります。
このようにして始まる、一郎くんとカウンセラーの対話。初めは「話すのを少し迷っているように見え」た一郎くんも、カウンセラーからのいくつかの語りかけをうけて、「ためらったのち、ようやく話す決心」をしたようでした。朝練のときに聞こえてくる”怒鳴り声”が、自分の足を止めてしまうこと。この”怒鳴り声”は自分にとっては大きなことであること。学校に来ることという努力も続けるという選択肢。などについて語ってくれました。そして、
カウンセラー:それからほかに選択肢はあるのでしょうか? できるかどうかは別にして思いつくことはありますか?
一郎くん:(ためらいがちに)部活をやめることかな……。
カウンセラー:今「部活に対する気持ち」は、どのようなものになっているのですか?
一郎くん:え?
カウンセラー:「部活をしたいという気持ち」は、どのくらい一郎くんと共にあるのかなと思いまして……。
一郎くん:うーん、あんまりないかな。
カウンセラー:「やめる」という選択肢は、比較的簡単なものなのでしょうか? それとも、それを選択するのは、何かが邪魔するのでしょうか?
(略)
カウンセラー:ここで、一郎くんの気持ちを確認させてください。
一郎くん:(じっと私をみている)
カウンセラー:「部活をしたいという気持ち」はなくなってきているということですが、もし先生に言えるのであれば、「やめること」を前向きに考えてみたいですか?
一郎くん:(うなずく)(略)
二週間後の面談に、一郎くんは参加しませんでした。それは、部活をやめる決心がついたのと、そのように話ができたから、もう大丈夫ということでした。それよりも、授業に出たいと母親に伝えたそうです。
(同 37-38頁, 41頁)
涙が出た。
「二週間後の面談に、一郎くんは参加しませんでした」「もう大丈夫ということでした」という文章を目に映した瞬間に。
目の横をつたって耳の中に入っていたその感触を、今でも覚えている。
一郎くんは「そっか、そう考えてもいいんだ」と言ったそうです。母親は、どのような意味なのかつかみかねたので「どういうこと?」と尋ねたところ、「いや、俺が悪いとばっかり思っていたから、こんなふうに考えてもいいんだと思って……」と言ってくれたということでした。
(同 42頁)
もし、
もし私も、高校生の時、
この人にーーこのような言葉をかけてもらえる機会に、出会えていたら。
いったい私は、どんな私になっていただろう?
そういう悔しさ。
でも、救われもした。
私は出会うことはなかったけど、
出会った子がいた。
わたしのかわりに
「そう考えてもいいんだ」と思えて、
まっすぐ進むしかなかったはずのその道を、曲がった。
私が決して選び取れなかった(そんな道があったなんてついぞ気づかされ得なかった)その道に、一歩、足を踏み入れてくれた。
不思議だ ひとは
こんなにも時が 過ぎた後で
全く違う方向から
嵐のように救われることがある羽海野チカ『3月のライオン』5巻 Chapter52より
*
「でも、今となっては、私の人生もそんなに悪くないじゃんって思えます」
「色々あったけど、そんな道のりを歩んだからこそ、いろんなものに出会えた。私が今までに出会ってきたひとつひとつのことに出会うために、今までのことがあったんだと、全部ひっくるめて私の人生なんだって、そんなふうに、今は全部を肯定できます」
ーー本当に?
本当に??????
本当にそんな「めでたし、めでたし」なの????
たしかに、そんな風に思っているのも本当だ。
だけどそれは、氷山の一角なのではないのか?
私は今、水の上に見えているだけのものを全てだと思って、だからこの気持ちが私の全てだと信じ切ってしまっているかもしれないけど、その下には、もっと途方も無い大きな大きな何かが、あるんじゃないのか?
そう、実際のところ。
私は、
世間で言われるところの「ふつう」になるために
一体どれだけのお金を使った?
自己啓発セミナーにウン十万。
情報商材に百万以上。
婚活にだってウン十万。
これは私のお金ということ以上に、私の家族たちのお金だった。
私は、ずっと大切に貯められてきたものを、こんなにも浪費してきてしまった。
なんて馬鹿だったのか。どうしたらいいのか。いずれ閻魔様のもとで永遠に働き続ければいい?
さらに私は、
世間で言われるところの「ふつう」になるために
一体どれだけの時間をつかった?
それってどこから考えればいい?
社会人以降?
受験以降?
それとももっと昔から?
いいんだよ?
納得してるよ?
嬉しいよ?
今こうやって、こうしていること。
でもさ、この「今」を手に入れるために支払ったものは、あまりに膨大で。
もし、
もしも、
この「今」が、
せめて、社会人1〜2年目くらいに、
もっといえば、学生時代に、
当たり前に手に入っていたら。
ねえ、私は今、どんな私になっているかな?
あれだけのお金を、時間を、他の何に使えていただろうか??
「今」っていうのは
知識とか、経験とか、そういうことじゃない。
「私は正真正銘私のままで、すっかり世界に受け入れられている」
「私は究極的には一切なにもしなくったって、生きてていい」
「私の思っていることを、私は尊重していい」
そういう『ゆるぎない安心感』が持てている状態のことだ。
こんなにも代償を払わないと得られないものなの? これ。
こんなにも代償を払うことを求めている社会なの? ここは。
If you always take it on the chin and wear it,
You might as well be saying you think that it’s OK.
And that’s not right.
And if it’s not right, you have to put it right!!!!!!「Naughty」 – 『Matilda The Musical』
(「!」がたくさんついてるのは私が勝手にそうしましたごめんなさい今の気分的に)
まあ、でも、基本的には私の人生も悪かないとおもってるよ。
けどまあ、
仮に並行世界というものがあって、
そこには別の私が生きていて、
その私は、幼い頃から当たり前にこの安心感を持っていたとすれば、
今、この私とは全く別の私としてその人生を歩んでいるに違いない。
……と、
妄想するくらいは許してほしい。
*
で。
御託は結構なことだけれど、結局おたくは何なの?
何ができるの? 何をしてくれんの??
ってツッコミはごもっともなのである。
それをこれから考える!
今年中くらいに考える!
もっと具体的には来年の1/6までに明確にするぞぃ!!