MENU

『なぞのおじさん』になりたい

お久しぶりのブログです。2020年後半はブログに(つまりは自分の内面との対話に)ゆっくり費やせる時間がなく、あわや年初の体調不良に逆戻り!! …してしまいそうなピンチにも見舞われたりもしたのが、同じ轍は踏まない! 無理と思ったら早めに引き上げる! 命を大事に! という過去の教訓を活かしたことにより、大病にはならず済みました。

後半も後半で色々あって。その経験を通して、改めてこれから私はどんな風に生きていきたいか、どんなことをやっていきたいか、どんな存在でありたいか、というようなことを考えて、それはたぶん、今後揺らがないもの、つねに立ち戻りたいところ、であるような気がするので、頭の中だけじゃなくて、ここに書き留めておきたいと思いました。

それから、これからはどんどん自分を出していこうと思います。今までは、こんなこと書いたら変な人だって思われるだろうなと思うことは胸の中に閉まっていたのですが、もういいやって気分になってきたので。率直にどんどん書いていく。あたまおかしい人だなーと思われたらそれはそれでいいや。って思えるようになったので。

目次

いつも公園にいる謎のおじさんになりたい

2020年はラジオを聴くようになった年でした。お気に入りが『高橋源一郎の飛ぶ教室』。本の紹介や朗読とともにざっくばらんに色々なお話を聴けるのがとても楽しい番組。

ある放送回で「昔は『何しているんだかよくわからないおじさん』が身近にいたものだ」というお話が(ちょっとうろ覚えですが)あったのです。生活圏内とか、親戚の中にひとりくらいそういう存在がいたんだよね、というニュアンス。部分的に書き起こしがあったので、載せます。

高橋さん:(この番組の放送)1回目に、植草甚一さんの話をしましたよね。
小野アナ: 「暇なおじさんが世の中に必要だ」という話ですね。
高橋さん: 「おじさん」というのは、お父さんや社会、世間や学校が教えてくれるものじゃない知識を教えてくれる。「ふだんは何をしてるの?」というような人です。

2020/06/12放送「高橋源一郎の飛ぶ教室」

高橋さん: この「ヒミツの本棚」の最初のほうでは、「おじさん」の話をしましたよね。
小野アナ: 「人生には“おじさん”が必要だ」。
高橋さん: おいっ子・子どもの知らない知識を、親と違う価値観を持ったおじさんがやってきて教えてくれる。上田さんも、そういう意味では「おじさん」だと思うんですね。若い人たちは——たぶん岩下さんも——普通の価値観で生きてきた。でも、(上田さんは)まったく違う価値観を持っていて、ふざけているのが、いかにも「おじさん」っぽい。(略)これは親が持っている価値観じゃないし、社会が持っている価値観でもない。

2020/12/18放送「高橋源一郎の飛ぶ教室」

私は第一回の放送は聞いていなかったのですが、そちらも文字起こしがあったので載せます。ちょっと長いですが! あと、前半の文章は、植草甚一著「ぼくは散歩と雑学がすき」からの引用だそうです。

僕の考えではおじさんというのはなんだか嬉しい存在だと思うんですね。その人がいてくれるというだけで、なんとなくホッとするようなね、なんか気が楽になるような存在、それが僕におけるおじさんのイメージなんですね。
少年である僕がいるとしますね。少年は当然親の押しつけてくる価値観や物の考え方に閉じこめられている。これはもう生まれた時からずっと閉じこめられているわけですから、当人にとってはいわば自明のことであって、従ってあんまり当たり前すぎて閉じこめられているということにも気づかずにいるわけですが、でもなんだか毎日うっとうしい。
そんなところに、ある日ふらっとやってきて、親の価値観に風穴を開けてくれる存在、それがおじさんなんです。

おじさんは遊び人で、やや無責任な感じだけど、本を沢山(たくさん)読んでいて、若い僕の心をわかろうとしてくれ、僕と親が喧嘩(けんか)したら必ず僕の側に立ってくれるだろうような、そういう存在ですね。おじさんと話したあとは、なんだか世界が違ったふうに見えるようになっちゃったト、そういう存在が、まあ、僕におけるおじさんというイメージなんですね。

高橋さん: これが“おじさん”なんです。親や社会が教えてくれる「正しいこと」じゃないことを、いつも遊びながら教えてくれる人。それが“おじさん”なんですね。(略)
小野アナ: 「悪いおじさんが今必要だ」とは、どういうことなんですか?
高橋さん: 今の社会は堅くなってる。よくインターネットなんかでも言われるんだけど、みんな「間違っちゃいけない」と思うでしょ。“おじさん”は「間違っててもいいよ」「自分で考えればそれでいいんだよ」と言う。“自由人”ということですよね。
小野アナ: なるほど。
高橋さん: 今は息苦しい時代だと思います。ちょっと間違うと、「お前は間違ってる」とたたかれるでしょう。“おじさん”は「お前は間違ってる」とは絶対言わないです。「それもおもしろいね。おじさんならこう考えるけど、それでいいんじゃない。もっとおもしろいものがあるよ」と教えてくれる。

2020/04/03放送「高橋源一郎の飛ぶ教室」

やー、もー、これ、スタンスがナラティヴも似通うものがあるな〜とも思います。その人がいったことを「それはちょっと違うんじゃない?」なんて絶対に言わない。「へぇ〜君はそう思ってるんだ〜! いいね、面白いね、ちょっともっと詳しく聞かせてよ!」って、先を促してくれる。なにかに当てはめたり是正しようという意図がなくて、とにかく、そこに出た発言を(突飛だろうが凡庸だろうが)フラットに、しっかりと受け止めてくれる。

スタンスとしてももちろんなりたいけど、存在のあり方として、こういう感じの、ちょっと謎で、「シッ!近づいちゃいけません!」て言われかねないくらいの人になりたい。そういう存在も許容されるような、ゆるやかさ・・・”あそび”のある社会であってほしいから。そうでなきゃ、それすら抱えきれないような度量も余裕もない世界なんて、息苦しくて当たり前だ。こんなにも生き苦しくて、せせこましい場所であるはずはないじゃん、あっていいはずがないと思う、私たちが生きているこの世界は。

そういえば、海外に出ると、こういうおじさん的存在にめちゃめちゃ出会えるんだよね。ゲストハウスとかで。話してみると、本当にもう発想とか遍歴が面白すぎて。そんなことをするのが人生にあり得るんだ!? って。でも、まさに目の前にそういう人が存在してるというリアル。
私はワーホリとかホームステイで、いろんな「おじさん」に出会ってきて、凝り固まった価値観を少しづつほぐしてもらったのだと思う。なんだろう、「そういうものアリ」っていう・・・自分の認識範囲(常識)の外側に住んでる人がいるってことを知って、え、そんな生存可能領域があったの!?ってびっくりして。もちろん最初は「違う世界の人だ」「自分はそういう生き方はできない」って感じるんだけど。まず「そういうものもある」と「知る」ことが、知らず自分の許容範囲とか可能性を広げてて。。。

今まで培ってきた常識とか、こうあらねばならない、あらまほし、は本当に限られた集団の中でしか適用され得ないものなんだよって。でもいつもの場所にいるだけではそういうのって気づけないんだよね。だから、そういうぶっとびに出会うためには、思い切って遠くに行く必要があるんだけど、私は逆で、いつもの場所に突如現れる異質な存在になりたいのだ。

1000%満足したい

ふと頭に思い浮かんだので、話を脱線させるのですが。
この間NHKあさイチで、山本文緒さんの『自転しながら公転する』のこの文章が紹介されていた。

「幸せにならなきゃって思い詰めると、ちょっとの不幸が許せなくなる。少しくらい不幸でいい」
2020年12月18日放送あさイチ プレミアムトーク 山本文緒

私はこの本を読んでいないから、文脈はわからない。ただ、こうやって切り取られたこの言葉を目にして…思うのが。こんなふうな、どこか諦念と翳りのあることばが、今を生きるわたしたちの多くの心を癒してくれることばなの!?!? ってこと。

いや、わかるんですよ。すごく素敵な言葉だとも思う。心が軽くなる感じもわかる。どうしたって毎日迫りくる苦しい状況を何とか乗り切るしかなくて、そんなときとりあえず今この瞬間ある痛みを和らげるロキソニンが必要なのもすごくわかる、私だってロキソニンにはお世話になってる。

でも! 「少しくらい不幸でいい」って溜飲を下げることでしか渡っていけない世の中ってなに!? 世の中ってそんなつらい場所なの? なんでそんなつらい場所で生きていかなきゃなんないの? すごいやなんだけど。そんな場所でなんて、生きていきたくなくなるんだけど!

私はもっと正真正銘、龍頭徹尾、まごうことなくしあわせでいたい。そんな満たされた状態の中で、生きるよろこびを甘受していたい。それってむずかしいことなの? なんでむずかしいの?

こういうことを思うたびに、私はとてもめぐまれた環境の中でぬくぬくと生きてきた人間で、今もそんなゆりかごの中にいるんだなって思う。だからそんなことが言えるんだ、って、脳内で糾弾される。こんな私の妄言はたぶん人の気持ちを逆なですることのほうが多くて、だから言わない方がおたがいのためって(傷つけないし傷つかない)、ずっと黙ってたけど。ぬくぬくした場所で育った私だからこそ出てくる言葉がきっとあって、それはだれかを苦しめることもあれば、きっと何かひとつ、道を開くとっかかりになるかもしれない、なってほしいという願いを込めて、これからは口に出していきたいと思った所存。

(あれだ、伝え方を学ぶっていうのが大事なんだ・・・)

なんだかすごい話がそれた気がしますが。

でもきっとむずかしいことじゃないと思うんですよ。・・・というより、むずかしいことであってほしくない。たぶんだけど、スピノザが言うところの本質。本質をちゃんととらえて、ただそれのみに全集中すれば、きっと。(完全にこれは現時点での私の『願望』ってやつだけど、でも証明&実証したい仮説でもある。)

むずかしい、っていうより、「不可能ではない」という感じかも。もちろんそこに至るにはたくさんの工夫や時間は必要だと思うんだけど…。「どだい無理なことだから望む(目指す)べきではない」というのが、個人的には受け入れたくないというか。あと、幸せっていうのも、別に24時間365日苦しみも悲しみもないっていうことじゃなくて…大枠として100%自分の望むように生きられていて、その中でまあ日々ちょっとしたストレスはありつつも、そもそも大きな意味で一番やりたいことできてる、そのやりたい方向に進む途中にある大変さならなんともない!みたいな。しあわせ(満足感)の肝がきちんと掴めているって感じかな。(あれ?もしかして私はごくごく当たり前のことを言っているのか…?いやぁ今までその当たり前すらなかったので私…)

わたしののぞみをシンプルに

私はもう自分が、会社でものすごい業績あげるとか、プレゼンが上手とか、一目置かれるような功績がほしいとか、お金をたくさん稼ぐとか、そういうことが幸せと感じる人間ではなくて。(かつてはそう思い込んでいたから、本来全然欲してもいないものを手に入れようと、一生懸命に向いてもいないことに時間と労力ひいては命をささげて、結果、自分を欺き続けた代償として倒れましたけど)

ただ、歌って、興味ある分野の本読んで、ナラティブに関するブログ書いて、旅して、お話聞いて、「すっきりした」って言ってもらう。たったそれでいいのだ。ということがわかってきた。

だから例えば、井の頭公園のベンチで日がな一日弾き語りでもして。たまに誰ともなく隣にすわってきたひとの身の上話をナラティヴ的に聞いて。「すっきりしたありがとうお礼にご飯おごりますよー」って言ってもらえるような。基本的にはそんな日々が送れれば。

これを「難しい」とか「特別な人じゃないとできない」っていうんじゃなくて。だって、それが私が心からの充足を感じることなのだから、なんでそこを目指そうとしないんだ?って話。10代ならまだしも、30代になってからそんなこと言いだすのがおかしい? いやー、まだやってないから、わかんないし。今の私の感覚としては、たとえだめでも私は一定期間これに取り組んでみたい、と思っている、感じ。

だから、私は「どうやったらこんなふうな『おじさん』になれるのか」ということを真剣に考えていきたいと思います!!

「どーせむり」と決別する

あとはこの動画。

初めて見たのは、2020年の初めごろだったと思う。で、数日前に、ふと思い出して、見た。号泣。

植松さんは自分の体験、実感、確信として、こんな風に言えているんだと思う。私は、完全にこの言葉に共鳴するタイプの人間。だた、私にはまだ、本当にそうかどうかはわからない、というところにいる。この考え方によって手にしたいものが本当に手にできたという経験がないから。だからまだ、本当に信じていいんだろうか? という不安と猜疑と羞恥のなかにいる。でも、たくさんのたうち回って悩みに悩んだあと、信じてみよう! やってみよう! と決めたので、やるのです!

目次