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書きかけのまま放置されてた文章をサルベージ

7月22日以降ごろに書いていた書きかけを見つけたので、ちょっと体裁をととのえて、あっぷします。

ああ、なんて美しい作品だろう。
ここちよい声。水しぶきがこんなにも……。
そのまんなかで、世界観すべてを表現、体現しているその人。
優雅な立ち振る舞い、指先まで、力強く、それでいてしなやかで、とても、きれい。
こんなにも熱情的なのにどこまでも澄みわたった清涼感がある。

彼に会ったことのあるアーティストや表現者たちが「これからが本当に楽しみだった」と、だれもかれもが口を揃えてそう言っていたのが、分かる気がする。

きっと誰も知らない言葉が今僕の中で
渦を巻いてずっとLoop Loop Loop Loopして
吐き出そうと声を出してみてもうまくいかない
My heart beats faster
Night Diver

『Night Diver』より

やっぱり私としてはこの部分が、とても、すき。
その吐き出すのを、一緒に、傍らにいたい。
その背中をさすりたい。

私のなかをまったく占めていなかった、その存在を今までの生活において気に留めたことはほぼなかった、そんな人に関するニュースではあったけど、なぜだか、いくばくかの動揺が生まれていて。いったい自分のなかでどんなふうにこの出来事を受け止めればいいのか、どういう気持ちや考えを抱けばいいのか、ちょっと、きっと、すごく困っていたのだけど、その時に出会った、この記事。読んだのは7月22日の夜だったと思うけど、すごく、すごく、私の心を落ち着かせてくれた。そうだ、そうだなって。

文春オンライン
「この“産業”は、血の通った仕事だと自負しています」三浦春馬が最後の舞台公演で語ったこと | 文春オンラ... 彼の死ではなく、彼の生について書こうと思う。彼がなぜ死んだのかではなく、彼がどう生きていたのか、僕が最後に見た舞台のことを書きとめておこうと思う。  5月にこの舞...

彼の死ではなく、彼の生を記憶しよう

もしかしたらこれから先、各社の報道は彼の死の理由を探るのかもしれない。僕らの知らない「このような理由があって死んだ」という報道は、まるでラストシーンが映画の意味を決定するように、彼の人生の意味を塗り替えようとするのかもしれない。

でもそれは間違いだ。2020年の7月18日に起きたことは、彼が30年生きた日々のたった1日でしかない。その死は確かに彼の人生の一部だが、それは大きなジグソーパズルの一片でしかなく、オセロゲームの終端に置かれたコマのように、人生の意味をパタパタとひっくり返して色を変えていくものではない。死は逆算して生を定義するものではなく、生の最後の一部として片隅に置かれるべきものなのだ。

CDB「この“産業”は、血の通った仕事だと自負しています」三浦春馬が最後の舞台公演で語ったこと - 文春オンライン より

ほんとうに、そうだ。
ほんとうにほんとうにそのとおりだ。

パズルとオセロの比喩。
なんてわかりやすく、巧みで、芯の通った表現なのか。
なんて思いやりと敬意といたわりと愛に満ちた表現なのか。

そうだよ。
たった一つの行いが、その全てを塗り替えて、いままでの、生の賛歌に満ちた色とりどりの尊く輝かしい日々が、一瞬にして灰色の、モノクロームの世界になるなんて。そんなことはあってはならない。たったその一瞬の行為のために、9億4608万秒分の1秒の出来事のために、全てがなかったことに、無価値に、こなごなに、台無しになるような、そんなことあるはずがない。まして、彼のことを何も知らない、話したこともない人が、好き勝手、どうこう、彼の、彼だけの大切なストーリーをいかにもそれらしく仕立て上げるなんて。少なくとも私はもう、そんなものに全く興味がない。

ほんとうに、まさに、まさしく、
私はこれから彼に出会っていくのだろう。と思う。
あんまりドラマとか映画とか見ないから、まだぜんぜん知らなくて。
たまにJUJUさんとの番組を見るともなく流してた程度。
あとはバナナマンさんのバラエティ番組に出演して海外のファンの人と交流をしてたのを見て、これが最近人気のイケメンかあ、茶目っ気もあって等身大で、なんて絵に描いたような好青年なんだーっていう、それくらいしか知らない。
そんな彼が、いままで、どのように、その魂と、身体を使って、創りあげてきたたくさんのもの。
それが、どんなものだったのか、これから、少しずつ知っていきたい。

インターネットもぐもぐ
世界に真摯に寛容であること。三浦春馬さんとキンキーブーツ - インターネットもぐもぐ 正直、彼のことはあまり知らない。追悼できるほど知らない。 でもこの1週間ずっと彼のことが頭にあった。私の中であまりにも鮮烈に焼き付いているからだ。あの瞬間の猛烈な...

こちらの記事も、好き。
まずはキンキーブーツが見てみたいな。
円盤化しないかな。

(いや、うん、ちょっと、すごくないか?? Night Driverとぜんぜんちがう! 歌声一つとっても七色の声じゃないですかなんですかこのお方は!!)

でも、
だからいいと思うわけでもなく。
とはいえ、それは間違いだって言いたいわけでもなく。

それとはまた、ちがうところで。
違う話として、
私は自分勝手に私の立場から何を思うかというと、

「ああ、なんか、つかれたなあ」とおもったときに
心休まる、体いたわる場所が
どんな立場のひとであれ
もう二度と触れられない届かないところにしかない
なんてことにならず
この同じ空の下
地続きのどこか
に、あってほしい、と願う。
ということ。
ほんとうに、こころから。

そしてそれは、いつだって、どんな状況であろうと
そこに「緊急回避きめちゃっていい」ものだと
私は、思う、思いたい
みんな役割はもちろんあるんだけど
母親とか、上に立つものだとか、責任者だとか
でも、それ以前にみんな自分なんだし
なんていうか
緊急回避きめられちゃったらそりゃもう色々混乱するけど
でもまあ最終的にはなんとでもなる
「ぜんぶわすれてとりあえず休みな!!こっちはなんとでもなるから。アタシらがなんとかすっから!!」「元気になったらあんたの得意なアレで返してくれよガッッハッハ!」
って、あっけらかんに。ジブリにでてくる肝っ玉母ちゃんキャラみたいな感じに。おたがいにあっけらかんに、もちつもたれつ、そのときだけじゃなくそのあとのこともまあなんとかなる最低限は大丈夫 と思えるような。
理想論ってわかっているけど。
そんなせかいでありたい・・・
そんなせかいを構成する一粒でありたい・・・

ふと、星野源さんの『アイデア』が思い浮かぶ。
1番と2番のコントラスト。

「おはよう」で始まる、軽やかなナンバー。いかにも朝ドラ、NHK総合の毎朝8:15に流れるにふさわしい、爽やかな1番。そして、そんなふうにオープニング曲として公共の電波に、とてもたくさんの大多数の目には触れないとわかっているからこその2番。でも、こんなにも、これ、みんな、わかる。この、夜のかんじ。そしてまた1番にもどる1番のかんじ。その繰り返しの毎日。

その「仕込み」が、とても好き。
だって、日本放送協会の、しかも朝ドラの、お子様からお年寄りまで安心して見ていられるような番組のオープニングテーマ曲の歌詞に、「中指」だよ?? いくら使われないからといって。中指をどうすると明言はせず、とてもとても婉曲的とはいえ。顔真っ赤にしてBPOに投稿するひといるよ? きっと。でも、使われないからこその、この仕込み。「中指としか言ってませんけど?? あなたこそ何を想像したんですか??」と言えるからこその、なんかこう、あやふやでいかようにも解釈可能という芸術表現というものを逆手に取った感というのか。

なんか、こういうの、
こうやって、こっそりと悪戯をひそませるの、必要なんだろうな。
ってちょっと思ったりする。

品行方正にみせておいて。
でもたとえば相手が背中を見せたその瞬間に
お偉いさんが背中を向けたその隙に、
その背中に向かってあっかんべをしてやるような
ちょっとした憂さ晴らしというのか、
したたかさというのか。

現実的に人に害をなさない程度に。自分を貶めない程度に。
その後の歴史に影を落とすほどのことにはならないほんの些細な程度に。
インモラルなことも、こっそり、ちょっぴり。見えないところで。

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