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ナラティヴ・カフェ#14「ナラティヴ・セラピーで会話しよう」に参加したあとの独白

自分の中で毎月恒例になってきたナラティヴ・カフェに参加しました。

もう・・・また恐ろしくこれただの自分の独白で話とっちらかりまくりなのでもう、これは確かにナラティヴ・カフェに参加したからこそ生まれ出でた独り言で、そういう意味ではこの会に関係はあるけど、でももうもはやこの会と全く関係のないただの私の日記になっているのでご了承ください!!(毎度おなじみエクスキューズタイム)

はい。では、つらつらと。

目次

何が自分をここに連れて来たのか

最初の自己紹介タイムで「何が自分をここに連れて来たのか」というのがあるのですが、何も考えずルーティーン的に申し込んでいる私にとってこの問いかけはけっこう難しくて。でも参加したくないなら参加しないはずだから、少なくとも参加したくないものではなく、むしろ居心地がいいと感じているからこそ。何も考えなくてもそこへ向かわされてしまう対象・・・ということで、私は今回、「”何が”はわからないけど、蜜蜂が花に誘われるような感覚」と表現しました。
これを今改めてもう少し考えてみると、それって本能的に組み込まれたもの、というか、地球上での生命体としてそのサイクルのために組み込まれたもの。自分にはこれが必要なんだと理性を取っ払ったまんなかの部分で欲している感じ。やるもんだと。理由なんかない、と思ってしまう次元の。
ということで名詞で答えるなら「本能」かな。

でも、今回改めて終わってみてから感じたのは「ここに来れば絶対に何かしらおの土産(今自分に必要な気づき)を得られるから!!」っていうのが大きいなと。で、たぶん、それに対するコスパの良さですよね、1000円て!

あー、今思いついたけど、なんか、公民館に集まってる感じがあるのです。公営施設での会合っていうのかな。シニア世代の俳句の会みたいな。小学生が公園で遊んでる、でもいいかな。それは私にとってどういう感覚かっていうと、最小限の設備で最大限の・・・その活動の本質(これができることがこの活動のそもそもの目的だよねって部分)が得られる感じ。あと、肩肘張らない気安さ。

(なんでこのイメージが湧いたかというと、最近うちの区に公営のボルダリング施設ができたんですよ。そこの利用料がむっちゃ安い!普通のボルダリング施設って一回に2000円とか初回登録料が高かったりとか、なかなかに二の足を踏むのですけど、そこはなんと400円!子供は80円!桁が違う!!)

今回のおおきな学び

はい、いきなり前置きが長過ぎましたね。いやーー今回もすごい私的には本当に今回参加してよかったーーーーと思える学び&気づきがありましてーーー。

一番思ったのは、本当に、自分がなんとかしようとかうまくやろうとかいい方向に持っていきたいとかそういう我欲って本当にもういらなくて(なんなら邪魔になったり曇らせたりして)ただもう本当に自分はなにもできない、自分なんて何を知ってるわけでも何ができるわけでもないんだなっていう・・・これはなんていえばいいんだろ。でもそこに諦念とか無力感があるわけでもなく。。。いい塩梅で、いい意味でそういう心持ちであることがすっごい大事だなって・・・。志向性はよろしくない。みたいな。(でもそんなこといったら、じゃあ自分はなぜそこにいるんだとかいう話にも。いや、間違いなく、志向性は必要で、絶対になにか、なにかは必要なんだけど・・・そうでなければ、たとえばオルタナティヴストーリーは見つからないはずで・・・でもオルタナティヴストーリーをみつけてやるんだ!!!あるはずでしょほらほらほら!!みたいなアプローチはきっとよくなくて・・・じゃあどうしたらいいんだあああうわああああっていう混乱のさなかに突き落とされた昨日の22時過ぎ。笑)
きっとだから・・・それは意識してやるものではなくて、ただもう相手のことを理解したいんだっていう1000%の気持ちだけをもっていることが本当に重要で。あとのことは、もう、なりゆきにまかせるといったら変だけど、それまでの知識と実践が無意識にどんどん表出されていくことにゆだねるしかない・・「結果的に自然とそうなってる」ってところを目指すんだろうなっていうか・・・。(なんて難しいことだ。職人とか達人とかそういう感じ。)(「”そう”なってる」ってどういうことだ。えーと、自然とオルタナティヴストーリーとかが見つかる方向に話をすすめられている、ということかな。)

いや、でも何も考えてないはずはないんだよね。すごく何かを考えて、さまざまに思い浮かぶもののなかから選んで、会話をすすめていくことが必要なはずで・・・そのとき何を判断基準とすればいいか・・・ああー、だからー、うーん、うーん、「相手の話したいことの見つけ出し方がわからない」し、「聞くとき、あるいは、メモを見ながら返すことばを考えるときに、どういう観点に立てばいいのか? 何を見つめればいいのか? 自分をどういうモードにすればいいのか? 何に注目して、頭の中で何をどう処理しながら聞けば「ナラティヴ的姿勢」を保持していられるのか? 私はいま何をすればいいのか?????? がわからない」!!!っていう!! 大混乱が起きた。

いやもちろんこんな初学者の私がわからないのは当然であって・・・だからこそ、今の私にできることは変な雑念(何かしらの志向性)を一切取っ払って、ただただ、「相手のことを理解しようと務める」ことしかできない・・・それだけに集中・・・逆にそこをおろそかにしたらダメすぎんだろっていう、そういう感じ。そういう気づき。

とはいえ!!
じゃあ何も考えずにやるのもきっと違ってて!!何も考えないで取り組んだら何も得られない!!(もう〜〜一体全体なにをすればいいのか本当にわからない!!!!!!)
What on earth should I do!?!?!?

うん。あの、「対話にのぞむときに、なにかひとつ意識するとすれば、なんと意識しておくのが良いのだろう?」って、私は今悩んでいる。で、これはきっと違う(意識として持つにふさわしくない)だろうなって思うのが「この問題はどうしたら解決できるのだろう?」というもの。じゃあ、「何が問題なんだろう?」は? ・・・半分良くて半分良くない気がする。あー・・・これを考えられる・・この解を出せるのは本人だけってことかな・・自分が解を出そうとしてはいけない、、(今、最初「正解」って書いてたけど、正を消した。解でいいんだよ。その時点で導き出せる解で。最終解でなくてもよくて。)

うん、今、ふたりの学生が、ふたりともチョークを持って、答えがない(模範解答が載ってない)方程式をなんとか解こうと、解に至ろうと、たくさんたくさん式を書いていく、あーでもないこーでもない言いながら、黒板がどんどん白いチョークの文字で埋め尽くされていく場面が浮かんだ。それを前から3番目くらいの席に座って眺めてる2人もいて、たまに「あの隅っこに書いてあることってもしかして今の話と繋がったりしねぇ?」って口だしたりする。

「この人が解に至ってほしい」っていう気持ち、なのかなあ・・・。その人がカツカツカツと手が止まらないくらい、ブツブツブツブツ、つぶやきながら、その手の動きを促進させる。思考を促進させる。・・・むずかしいなあ。

チョークを持ってるのは2人なのかな。ひとりなのかな。白いチョークを持ってるのは語り手で、聞き手は青いチョークかな。

思い切った視点の切り替えは、オルタナティヴストーリーやユニークな結果を見つけるきっかけになるか、全然本人にとって語りたくもない興味もない方向に向かってしまうことになるか・・・。

あー、でも、「正解なんてないんだよな」ってことも今回感じたんだよね。やってみないとわからないところもある。やってみて反応イマイチだったりイマイチ活性化しなかったりしてもそれはそれだと割り切って歩を進めていくしかないのか。

でも私は、この「正解のなさ」に取り組んでいきたいなって思うんですよね。完璧にできることなんて永遠になくて。でも、この「正解のなさ」「完璧のなさ」に嫌気はささないし、その状態に追い込まれる自分を攻め立てもしないし、かといってそこで進歩をなくそう歩みを止めようという諦念や無力感もなく、本当にとてもいいパランスで、精神衛生よく、反省はあるけど自己卑下はないっていういい塩梅で、取り組めるんですよね。自分にはとても無理だとも思わない(いつかきっとできるようになるだろう、いやできるようになる日はついぞ訪れなくとも最期の日まで私はこれに取り組み続けたいぞという)なぞの根拠なき楽観性も持てている。そういう対象を見つけられて私はとても嬉しい。

私はいつから「ナラティヴの場では上手に話せなくてもいいんだ」と思えたのだろう?

えーと、すごく、初めてナラティヴセラピーを受けた日・・・というよりその日の帰路の気持ちを思い出していました。すっごいぐったりしてて。「やっぱり私は話すのが下手だつらい」って落ち込んだんですよね。

人と話すと落ち込む
ひとにせつめいできないなら理解できてないのと同じだなあ

気をつければ気をつけるほどがんじからめに
正解はない、完璧はない、わかってるけど
みんなどうしてるんだろう
なぜわたしはできない…
というより、わたしはそのへんがスルッとできるひとに比べてどこがどう違うんだろう

ゆびいっぽんうごかすことすらこわくなるような。何から話すのが最もスムーズなのか。考えすぎて。自分の凹みを埋めようと必死、この世界にはいるのなら。すごくコルセットで締め付けて穴をくぐりぬけるような。

2020年1月24日未明に書いていた自分日記より

とかってつぶやいている。

2020年1月23日時点ではそんなふうに思っていた私ですが、今は「ナラティヴの場はうまく喋らなくていいんだワーイ(⌒▽⌒) むしろ支離滅裂で言葉になる以前のわけわからんことを出しまくって相手を困らせる(?)くらいの場なんだウェーイ!らくちーんひゃっほーぅ\\\\٩( ‘ω’ )و ////」って思ってるんですよね。

いったいこの転換はいつ起こったんだ・・・
っていうのを寝る前に考えてたんですけど答えは出ず・・・。えええでもこれめっちゃ重要なことじゃんなにがいつどこであったんだよ私ィ・・・。日記を読み返していけば変わっていった過程がわかるかもしれないけどちょっと今その時間取れないのでおいおい。でもやっぱり2回目のときなのかな・・・あとはリフレクティングなのかな・・・

わからないけど、なんだろなあ、リフレクティングとかで、他人の「なにをどう言っていいかわからないままに、でも何かを伝えたくて言葉を紡いでいる」姿を見たことは大きかったかもしれない。うん。たしかにあれは、ちょっと自分にとっては衝撃の映像だったかもしれない。なんていうか、私が今まで身を置いていた現場ではそんなことをしようもんなら「もっとちゃんと自分のなかでまとめてから言葉に出せ」って言われて、つまりはそれができない自分=未熟っていう図式が成り立つ現場で。それがまさか、え、こんな・・・え、いいの?? みたいな。で、しかもそんなふうにその人が言葉を見つけ出そうと一生懸命になってるのは私のため、というか、私が出した言葉が発端、みたいなところの感動とか・・・。

「あ、世界には”こんなにちゃんと言葉になってないことを出していい場所”があるんだ」とか「大人でも”こんなに言葉にならないしどろもどろな様子”を人に見せてしまっていいんだ(見せてもそれが全然恥ずかしいことじゃなくて、当たり前の、普通のこととして気に留めないでいてもらえる場所があるんだ)」とか思ったな、きっと、たぶん、そういえば。

だからやっぱり質問側もかっこつけようとしたりしたらむしろよくないわ、逆に。まあだからといってそれに甘えて意味不明なことをなんでも言っていいわけではないんだけど。この場は大丈夫なんだっていうことを、身をていして表現もしつつ、なにより自分が肩肘張らないでリラックスして、そういう・・・安心安全の・・いわゆる「空気」をつくっていくことが大事なんだなあと・・・。

チームで取り組むということ

このあたり考えれば考えるほど、1対1ではなくて、チームでかかわるのすごいいいなあっていうか、むしろ1対1むりじゃね?とすら思う。いや無理ってのは言葉が強すぎるんだけど。ひとりでがんばりすぎなくてよくね?っていう。みんなで取り組んだ方が、文殊の知恵、ひとりひとりが少しのパワーでものすごく遠くへ行ける感じがするよ。

(あれぇ・・・前職で先輩同僚たちから言われたことと同じこと言ってるぞ私・・・。えっとぉ・・言わせてもらえば、あの・・・それを、私の方から言えないですよ。そもそもそういう状況が整ってなければ。なんか、どこかで、その「チーム」の中のだれかが、少しでも「お前でなんとかしろよお前の問題だろ」って脳裏に1ミリでも感じていたら、私は、言えない・・・。あ、でも、やっぱ、その感覚を私自身が持ってなかったせいもあるかも。私自身が脳裏に「本人の問題は本人で解決しなければならない」って思ってたからこそ言えなかったものあるか。あーーー。これ難しいなあ・・・。これって頭でわかるものじゃないから・・・まだ心底そう感じられてないうちに無理にやろうとしても苦しい・・・私はそうだった。あーむずかしいむずかしい。だから、こう、人が、一人の人が生きていく中で、なんとか「そういう場所」に出会える、エンカウントできる、そういう、エンカウント率の高い社会であってほしいと願う・・・)

(その「チーム」の中のだれかが、少しでも「お前でなんとかしろよお前の問題だろ」って脳裏に1ミリでも感じていたら、って、それは、自分(も)だったのか!!!!!ひいい!!)

とつぜんの太宰治

あのー、私日本文学とか全然詳しくないんですけど、ちょっと前に「太宰治が学生時代に芥川芥川と書き連ねていたノートが発見される」っていうのあったじゃないですか。なんかそれって太宰治の芸風として最高だなってありがたいなって思うのですよね。みんなちょっとそれを見てなんて恥ずかしいって思うんだけど、それはどこかで自分にも身に覚えがあるからで、恥ずかしさの先陣を切って赤裸々に自己開示していくスタイル最高だなって。もちろんこのノートが没後に大公開されるなんてのは想定外のことでやめてくれって感じだろうけど、もともと私小説とかを作風としていた人が、自分のあずかり知らぬところでも同じように自分の内面暴露でひとびとを楽しませているっていうのがなんとも、らしいなあと、思ってしまうのであった。具体的にどれだったか忘れたけど、高校くらいのときに太宰治読んでなんかすごく救われたこともあったし・・・。
えっとつまりだれもかれもがスーツでビシッと決めて流暢なスピーチを噛むこともなくやり遂げる人ばっかりの世界ってすごくいきぐるしいと思う・・・。
というのはNZに住んでた時に日本を遠くから眺めながらおもった・・・。なにこのテキトーな、いえ、おおらかなお国柄・・すき・・・っておもった・・・。

あと別に太宰治も使命感に燃えてやったわけじゃなく自分がやらないともてあますからやったであろう(っていうのは勝手な想像だけど)っていうのがいいなって思います。酸欠少女さユりさんのこの言葉がとても好きなのです。

この曲は私のデビュー曲です。誰かを励ますために作った曲ではなくて、自分が自分を愛せるように、欠けてても、足りなくても、そんな自分を認められるように、そんな気持ちで作りました。誰かを励ますために作ったわけじゃないけど、でも、この曲が、この動画が、御守りになったらいいなと思います。

さユり – ミカヅキ / THE FIRST TAKE より

おためしの場

感想を書こうと思ってまだ書けてないのですが、先日からリスニング実践トレーニングコース(休日開催コース)に参加しています。(感想を書こうと思って書けていないナラティヴ・メディエーションにも参加してました・・・書きたい・・・ことが・・やまほど!!)

先日第1回目があり、そこで聞き手役、語り手役とやりまして。詳しいことはまた書くのですが、とにかくいろいろと振り返っている中で、「こんなふうに聞けば良いんじゃないだろうか!」と思うことがあって。それを、その数日後にこうやって試してみることができる、そういう場を用意してもらえている、というのは本当にありがたいことです。本当に。

まあそのお試しは撃沈したわけですが!! でも、撃沈したことによるあれこれの考察がこうやってまた進んでいることがありがたい。で、そのお試しを、学びたい者同士で行えるのが本っ当ーーーにありがたい。いきなり本番はこわい。(まあ私は本番の場を持っていないけども。)もちろん、話してご自身の本当の話をしていただいているという点では、そこは練習の場であっても本物であることには変わりはないので、練習の場だから何しでかしてもいいってことにはならないのも事実なんだけど、とはいえやっぱり練習の場だから、試させていただけるというか・・・。失敗しにきてるんだと思えるというか・・・。あとはやはり率直なフィードバックがいただけるのも大変ありがたいことです。

その他の覚書

・初めてのナラティヴの実践(自分がナラティヴを使って話を聞く実践)が、このナラティヴ・カフェ#12で本当によかったなあと思うのが、上に書いた「ここは失敗してもいい場所」という言葉をそのとき一番最初にいただけたのと、あと、そのときの全体感想で「あまりうまくナラティヴの質問ができなかった」という質問者役の方のフィードバックに対して、語り手役の方が「知ろうとしてくれること自体が言葉の後押しをしてくれていた」とおっしゃってたのを聞けたことです。この経験があったから、とりえあず何も知らなくても何もできなくてもまず「相手のことを知ろうとする」という想い一つで向き合えばまずはOKなんだなというのがインプットされた。

・今回とても混乱していた自分がいたように思う。その状況を同じ目線と気持ちで聞くためには、その人と自分を重ね合わせること(その人のすぐ横に立ち、視線の高さを合わせ、目が見ている位置を特定して・・・と最大限一体化するような行為)が必要だと思うのですが、その一方でその状況だけではないはずだと視線を変えたり、俯瞰して見たりするほうに行ってみることも必要で。その人ではない私がいる意味は、その状況をすこし遠くから眺める視点のほうに招待することなのではないかと思っていて。なんか、真逆!真逆のことを同時にしないといけない気がして!なんかもう!どっちだーーうわあああ〜〜〜・・・ってなってた。

・体調を整えるのは大切だな・・・。やってる最中は集中しているから、あまり気にならないというのはあるけど、なんとなく本調子じゃない感覚はあった・・・。なんかこううまく自分をコントロールすることができず・・・弁の開け閉めがうまくできてなかったというのか・・・エネルギー0か100%かで放出しかできないポンコツになっていた・・・反省。

・「ある」ものに目を向ける

・かぎかっこにいれて考える。・・・これちょっとうまく言葉にできないんですけど、今回なんか思ったのが・・・。語り手の言った、言葉、というか、文章。それを、全部、カギカッコに入れて・・なんか、小学校小〜中学年対象の本のような感じで。【なになにさんは言いました。「なんとかかんとか〜〜」。】って感じで、ストーリー仕立てで考えていくような。そこでその言葉(表現)がでたことにはかならず意味があるというか、その表現は本人にとってどういう意味が。。ていうのを、こう、本を読んでいくようにやってくと、、いいのでは・・・っておもったけどちょっとこれは今の時点ではまたよくわからないから保留。

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