MENU

あなたは”心の源泉”の守り人としてこの世界に遣わされたー「依存」と「他者の力を借りる」の違いについてー

お久しぶりのブログです。

本来なら改めて自己紹介とか、近況報告とか、そんな記事から再出発するもののような気がしますが、そういうのは無視して、気ままにその瞬間の言葉を書き留めていくのがこのブログの趣旨なので、あいかわらずマイペースに書きたいことを脈略なく書いていこうと思います。

ずっとモヤモヤしていたことに、やっと言葉が、あるいは、しっくりくる比喩表現が、見つかったので、ちょっと久々にブログ執筆してみるかあ、と思い立った次第です。

私は「その人の心の奥深くにある湧き水の源泉」にまつわることが、したい。

それは必ず絶対に、誰一人例外なく持っているもの。だけど、今まで生きてきた長い年月のなかで、色んなものが覆いかぶさって、すっかりその存在が感じられなくて「自分にはそんなものない」と感じたりとか、「あるけど枯れきってる」とか、「よどんでる」とか、いろいろな状態で。

でも、必ず、ある。
あるし、いつからだって、必ずよみがえる。
その力を持っている。必ず。

そこは聖域(サンクチュアリ)で、静かで、大木にゆったりと身を預けながら、目を閉じて、耳を澄ませて、ゆっくりと深呼吸したくなるような、清涼な空気が肺に流れ込んできて、心の内側から身体の全部が浄化されていくような、そんな場所にある。

あなたはこの世界でたった一人の、あなたの「源泉」の守り人としてこの世界に遣わされた。
その源泉が透明に保たれて、こんこんとみずみずしく湧き出で続けるように、手入れして、お世話をしてあげること。それは世界中の誰も肩代わりをすることができない、あなたにしかできない、いちばんたいせつな、お役目。それがあなたがこの世界に生まれた意味、と捉えるのもありかもしれない。

(ほんとうは、お役目とか、お仕事なんてふうにも思わず、そこから湧き出す水をいつも綺麗にしておきたいなあって、気にかけて手入れすることが自分にとっての自然の営みになってくれるのが、私はいちばんうれしくて、そんな心持ちであなたが生きてくれていることが、私をとてもしあわせなきもちにしてくれるんだけど。でも、最初からそれをするのはとてもむずかしいことも私にはとてもよくわかるので。敢えて、先生が生徒に『教室を雑巾がけしなさい』と命じるように、それはあなたに課せられたことなのだと、行動を強いるようなかたちで伝えてもみている。)

「そんなことやりたくない。」
「めんどくさい。」
「意味ない。徒労に終わると思うから。」

とか、そんなふうに感じるのだったら……それ以上、私はあなたを強いることはできない。あなたがほんの0.01mgだけでも「取り組んでみてもいいかな」って思うこと、それだけは、私のほうから働きかけられることはなにもない。でも、「何があなたに『やりたくない』と言わせているの?」「その『めんどくささ』ってどれくらいの大きさなの?」「『徒労に終わる』ってどういうことか、もう少し詳しく教えてくれない?」って、あなたに問いかけてみたい。あるいは、そんな問答もめんどうだ、とあなたが立ち去ってしまうなら、「私は、5年後も、10年後も、もっと先でも、ぜったいにここで待っているから、少しでも足を向けてみたいと頭をよぎることがあったら、どんなに時間が経っていても、唐突でも、一切気兼ねすることなく、私を訪ねてきてね。それが50年後だったとしても、その時あなたがどんなあなたであろうと、あなたと再び会えること、会いに来てくれたことがとってもうれしくて、歓迎するから!」と、その背中に言葉を投げかけたいです。

さて、じゃあ、ほんの0.01mgだけでも「取り組んでみてもいいかな」と感じられたとして

「でも一体、なにをどうしたらいいの?」

と、きっと、思うはず。それ一緒に、取り組みたい。源泉を見つけに出かけたり、枯れてしまうまでにいったい何があったんだろうと歴史を紐解いたり、何が水をよどませていて、このよどみを少しでも軽減できることの助けになるものは何かないのか、知恵を絞ってみたり。あなたの隣を、同じ歩調で。

そして実は、上記の質問のに答えるための知識や知恵を持つのは世界にただ一人、その源泉の番人であるあなただけだったりします。ただ、頭の中だけ、あるいは紙に書きだしたとしても、自分一人だけで考えていくのって結構たいへんだから、私も、その考える作業に参加させてほしい。

まあ、そんなかんじ。

なんなんだろう、ってずっともやもやしていました。
源泉の渇きを、他から貰うことで満たそうとしない。自分の中から湧き出すものがある。そういう状態になれていることが、今の私の健やかさにつながっていて。でもそれは決して、だれにも頼らずに生きていくべきということを意味しない。かつ、カラッカラに乾ききっていたら、それはもうまず最初は他から貰って満たすこと、そこから始めることが大事だって、それも強く思ってる。

私だって、今すごく色々なものや人に頼ってる。もらってる。だけど、昔みたいな頼り方とかもらい方とは明らかに違っている。でもじゃあそれは、そこのちがいは、一体なんなんだろう、ってここ数日ずっと悶々してました。

で、昨日ふと思いついたのが「湧き水の源泉」と「そこを手入れする主体としての自分」みたいなところ。これですごくしっくりきました。

まず、湧き水は(水を内部から湧き出させるための器官・構造は)全人類みんなに絶対に標準装備されてるってこと。持ってない人はいない。これは真理かつ前提。その根拠を尋ねられても答えられないけど、だからある意味仮説であり私にとっての信仰であり願いであるけど、・・・それくらい、信じてみてもいいじゃない? (『それすら信じたくない、信じるのが怖い』と思わせる何かが、あなたをとりまいている? それは・・・苦しいね、その苦しさを、少しでいいから私に教えてほしい。少しでも、その苦しさを共有したい。)いや、信じるのできないのわかる。わたしもそうだった。だから、あなたには必ず絶対源泉があることを、あなたの代わりに私が信じる。確信してる。過去に私も、そうしてもらう(私が信じられないものを他の人が信じてくれた)ことが、支えになったから。

で、標準装備はされてるんだけど、それを見失っていたり、どんなものかわからなかったり、枯れてたり、汚れてたり、詰まってたりは、する。だから、まずはどういう状態なのかしっかり観察して、状態がいろいろ明らかになってきたら、順序立ててメンテナンスしていく。で、これはいついかなるときも100%完全にすばらしく美しくこんこんと湧き出で続ける、なんてことは不可能で、生きていく限り、出が悪くなったり、濁ったり、それはふつうにある。それはそういうものだと割り切りつつも「あ、ちょっと澱んできたから、清掃屋さん呼ぼう」とか「このぬめりは何だろうか……理科の先生の知見を借りつつ解明しよう」とか、「あ~~~水位下降警報!もうこれは手っ取り早くお隣さんに頼んでちょっと分けてもらおう~~!!」とか、都度そんな感じに他人の手を借りながら、やってく。

だから何かっていうと、湧き出でている状態によみがらせていこうという取り組みを放棄して、常に他所から貰ってくることが常態化してる、これが『依存』。よみがえらせるため、保つための営みを怠らず、必要に応じて他者にも助けを求める、これが『力を借りる』こと。そんな感じにも言えるかな。

前者はね、自分がつらいんだよ。今もらってきてるところが、いつなくなるとしれず、なくなるたびに、常に探し続けなくちゃいけない。ずっとずっと。それは苦しいよ。不安だよ。時間かかって大変でも、自分でとこで湧き出るようにしたほうが・・・私は、そっちのほうがいいなあって思っちゃいます。探し当てようぜ、自分の源泉をよォ!

「他者に依存しない」っていうのは「自分の力だけ(独りだけ)で生きていく」ことではないっていうのも、すごく大事よね。

湧き水って何の比喩? ってことなんですけども。あんまり具体的なところに落とし込みたくない気持ちもあるのですけど、やっぱり、抽象的なままでは、私が伝えたいことが、それなりの強度をもって伝播していきにくいのだなぁというのが去年の反省なので……、少しまあ、いくつかの言葉に落とし込んでみると、

自己承認感
自己肯定感
生きる気持ち

みたいなところでしょうか。まあもうなんでもいいんだけど。愛とか、いのちとか、とにかく「自分を支えてくれるもの」ですよね。安定感。自分はこれでオールオッケーって思える感覚を、自己生成できる器官を、自分の中で稼働させていけると、心穏やかでいられる時間が増えておすすめです。

泉がここにあるの 私をつかさどる源が
何があっても枯れたりしない
諦めたつもりでもまた 透明なもので満たされていく

坂本真綾『CLEAR』より

おもいっきりこの歌詞のイメージから、来たんだなあと。最近は真綾さんを聞きまくっています。いろいろと同感すぎてうなずくあたまがとまらない。あとは今回、人生初の田植え体験したこと(和気さんの言葉をいただいたこと)も、この発想にとてもつながった気がします。

目次