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「書くこと」と私

書くことと私は不可分だ。
清少納言のごとく、この人の世を言祝ぐために
私は言葉を紡ぐのだ。

* * *

そのnoteサークルを見つけたのは本当に偶然だった。そもそもnoteは使ってない。しかしその日はどういうわけだか、noteのサイトに行き着ついて、しかも、新着だかおすすめだかの記事一覧をぼんやりとスクロールしていたのだ。そして。

見つけた。

https://note.com/fumigura/n/n5c5092a03873

気になって、いくつかの記事を読んで、感じた。
ああ、このひとからの、このひとがつくるサークルに集うひとびとからの、栄養ことばや思考が、今の私には必要だ。
大急ぎでnoteのアカウントを作った。

その当時、鬱ゆえの体力気力のアップダウンに翻弄され続け、ほとほと疲れ果てていた。2/14の日記なんて、午前2時28分に「だめだー」とただ一言、ダイイングメッセージのごとく書き残されているだけ。そのくらい「無」の24時間を過ごし続けていた日々。そこにいくつかの言葉が、光の速さで目の中に飛び込んできた。脳の最深奥、何かとても大切なものだけが立ち入ることを許される、秘められし小部屋に、ダイレクトアタックを仕掛けてきたのだ。それは例えば、「生き方としてのライター」という表現だったり、特にこのあたりの記事だったと思う。

https://note.com/fumigura/n/ncc315912344e

なんとかして「生き方」を見つけ出さなければ、と思っていたのだ。
鬱の診断を受け会社を辞めた。今までお金も労力も時間もこれでもか! というほど散々投げ渡して、探してもがいて積み重ねて、ようやく掴み取れたと思っていたもの全てが根底から崩れ去って。33年も生きてきて、今さら身ぐるみ全部剥がされて、そんな状態からどうしたってまた歩き始めるしかないというならば。
「生き方」を改めてここで定めないことにはスタートできない。ていうかたぶん物理的に、日常生活にすら戻れない。「鬱からの快復」には「生き方の獲得」が絶対条件だった。

このサークルを見つけてからの日々は、けっこう怒涛で。獲得のためのヒントが、アメ横のお菓子叩き売り屋さんみたいな勢いで、ほりゃ! どりゃ! と自分の中に放り込まれてきて、その発見をどんどん促すのだった。『映像研』の水崎ツバメというキャラクターに出会ったこともそうだし、その時期読んでいた本は間違いなく方向性のベースになった。でもやっぱり一番の衝撃は清少納言だ。

ああそうだ、私は、書きたい。
ただひたすらに、この想いを。
中学生の時に思ってたじゃないか、「今日の気持ちは、今日だけのもの。だから今日のうちに書き留めておきたい」って。「”ひぐらしつづりに向いて心にうつりくゆよしなしごとをそこはかとなくかきつく”る人生を送りたい」って。
それなんだ。

いや、かつても似たようなことを考えたことはある。
日がな一日書いていたい。だから書くことを仕事にしたい。なるほどブログで稼ぐということができるのか。なになに、あくまでもオウンドメディア上の小金稼ぎはフロントエンドでバックエンドに例えばWebコンサルっていう高単価サービスをつければいいと。なるほどであればWebマーケに詳しくならねば。うう、なんとか1度サービスを買ってもらうことはできた、でも全然だめだ、何が足りない? 社会人経験がたりない! よし、アルバイトから地道に始めよう、とりあえずちょっと経験のあるIT系がいいか。よしよし、1年半地道に積んだ経験を買われて、転職できて正社員にもなれた! よし、ITのプレフェッショナルに おれは なる! これで安泰だ! ……。…………。……あれ???

気づけば、本来何を求めていたかもすっかり忘れ、全然違う畑に迷い込んでしまっていた。
いや、ちがう。この時は、何を書きたいのかを無視していた。同時に、たくさん稼ぎたいとか、いろんな人に価値提供のできる立派な人になりたいとか……功名心、我欲、そういったものにとらわれていた。

そういうの、もう、いいから!!

シンプルに考えよう。
私は書きたい。私の日記を。
私は書き留めたい。日々の思いを。

それを、すれば、いいのだ!!

そして私はこの行為こそを、人生のど真ん中に置かなくちゃいけないんだ。よくネットでみかける「ある大学教授が語った、壺と石の話」のコピペみたいに。

それをするにあたり、とても大切なことはふたつ。
かっこつけないこと。さらけだすこと。

ブログを作りたいというのは長きにわたり思っていて、それがなぜできてなかったかといえば、時間がなかったのももちろんあるけど、このふたつを許可できなかったからだ。書くことも読むことも好きだから、「ああこの人みたいな文章が書けたらどんなに素敵だろう」という憧れはことあるごとに浮上して、それが前向きな原動力になるなら良いのだけど、大抵いつも「自分の文章はなんて稚拙でバカっぽいんだろう」という自己卑下に繋がってしまっていた。

そういうの、もう、いいから!!

ありのままに書く。これは思いの丈ブログ。別名:下書きブログ。という壮大なエクスキューズとともに。整えたいとか思い始めたら永遠に投稿ボタンは押されないから。
もちろんわかっているよ、読んでもらうということは、相手の時間を奪うこと。であれば精一杯のおもてなしをもって書くべきだって。私だって、フランス料理のフルコースのごとき、精巧で美しく芳醇な味わいの文章書きたい(そういうのが書ける人だって思われたい)、けど! そういうのもうやめます。そのためのエクスキューズ。

(ああでももちろん、持てる限りの力を尽くした最大のおもてなし文章も定期的には書いていきたいし、そのための勉強や研鑽は積んでいく。)

こんなふうに吹っ切れて、このくらい色んなことを言い切ることができるようになったのは……去年読んだ本の影響もあるけれど、直接的にスイッチをON! GO! と、こちらの記事に背中を押してもらえたのが大きいです。

https://ameblo.jp/uenopasiri/entry-12582923375.html

これを読んだとき、あまりに心に響き過ぎてその勢いで『This is me』を聴きに行ってウルウルしてしまいました。いびつで、たいしたことできなくて、履歴書的に見たら終わってる私だけど、これこそが私だ。こんな私で今一生懸命生きてるんだ! そうやって思いっきり発光して、「私はここにいる!」っていうことを叫ぶんだ!

言われた ”消えろ” 誰もお前など愛さない
でも心の誇りは失わない 居場所はきっとあるはず
輝く私たちのために

・・・

見られても怖くない 謝る必要もない
これが私

・・・

勇気がある 傷もある ありのままでいる
これが私

映画『グレイテスト・ショーマン』 “This Is Me” より

でも、ここまできても、あともう一歩足りなかった。新たにブログを立ち上げるとか、こんなにダラダラと書き連ねるとか、いくら自分のためとは言っても、やっぱり冷静な自分がツッコミを入れてくる。「そんなことにここまで時間と労力費やす意味あるの?」と。
ここを乗り越えられたのは、ナラティヴ ・セラピーだ。カウンセリングの時間を過ごす中で、心の中に支援者が定住してくれた感覚がある。専門用語でいうと、認証的聴衆とか、リ・メンバリングということかもしれない。このあたりはまだ不勉強なので、またいずれ詳しく。

ひとまず、この記事を書き始める前にノート書いてた構想(というなのポエム的ななにか)をもって締めたいと思います。(もしかして挿入するところがないのではないかとヒヤヒヤしてたけど、たぶんこの流れならいけると思ってホッとしている。笑)

* * *

1000年前も前に同じことを考えてた人がいるなんて、おっかしいんだ。
ふふふ。くすくす。
なんか、にやにや、ほくそえんじゃう。
ああ、ゆかい。うれしい。なみだがでそう。

こんなことがあるから、生きていける。

きっと、そんなタイプのにんげんってのは、
どの時代にも、どんな場所にも、きっといるんだ。
それはもちろん、未来も含めて。

だから、私は書くよ。

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